無我苦の克服

親鸞聖人がご苦労なさったというお話は皆さんよくお聞きになることと思いますが、何にご苦労なさったのでしょう。たしかに、越後に流され、関東で御法をお説き下さり、晩年は京都でご著作を多くお書きくださったというご苦労のお陰で、私に御法が到り届いたというご苦労があったでしょう。しかし、これは親鸞聖人の肉体的なご苦労であって、それだけがご苦労ではなかったはずです。
 親鸞聖人のご生涯を振り返らせていただくと、もっと大きなご苦労に出遇っておられたのではないかと思わせていただくのです。それが、ご讃題で上げさせていただいた、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界、よろずのことみなもて、そらごと、たわごとまことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」というお言葉に現われておられるのではないかと頂戴しております。
 このことは、諸法無我ということをお説きくださっている御文で、唯円房が『歎異抄』にお遺しくださっているのでありますが、このように無我ということをお説きくださっておられるのは、日本に多くのお坊さまがおられるのに、ただ親鸞聖人お独りなのであります。
 さて、では無我というのはどのようなことを指すのでしょう。 これをいただくのには、もうお一方、無我をおさとりになっておられたお釈迦さまのご生涯を尋ねるしかありません。

  お釈迦さま35歳の折、あらゆる苦行の結果をもってしてもおさとりになることができず、ついに苦行を捨てて、牛飼いの娘、スジャータから乳粥を布施され、体力を回復されて最後の瞑想修行にお入りになられます。そして一週間後、ついにおさとりをお開きになられるのです。
 ところが、おさとりになったら、それですべての苦しみが克服され、楽になったのかと言うと、じつはそうではなかったのです。お釈迦さまは、おさとりになって4週間、自分がおさとりになったことが本当に正しいおさとりであったか、繰り返し確かめられるのです。行に入って七五、三十五日、その時、このようなことを述べられます。 「私はついにさとってしまった。私のさとりには間違いがない。私は他の誰もまだ悟ったことのない境地に到達してしまった。 これから先、私は誰を頼りにして生きていけばよいのであろうか。何ものも頼りにすることのない人生は苦しい。 私は、これから先、私のさとった法を頼りに、生きていこう」 と言われるのです。 この「何ものも頼りにすることのない人生は苦しい」という言葉こそ、諸法無我ということなのです。私自身が頼りになるものではなかった、私を生かしている境界すべて頼りにならない世界であった、とおさとりになったお釈迦さまは、自らおさとりになった法のままに生きていこうとされ、その場から動くことなく、そのままの姿で命を終えようと言っておられるのです。 この苦しみこそ、「大苦」と呼ばれる苦しみであり、おさとりになった仏のみが感じる無我の苦しみであるとされています。
 この苦しみをどのように克服されたのでしょう。 お釈迦さまがこのように呟かれたのを聞いて、梵天は慌ててお釈迦さまの前に現われ、 「お釈迦さま。おさとりになった法を地上の者に説いてください」と懇願するのです。ところがお釈迦さまは 「私のような修行ができるものはいない」 とはねつけます。 再び、三度、梵天は 「あなたと同じように、この世を明らかに見ることのできる人間もいます。ぜひともおさとりを説いてください」 と懇願するのです。
 そこで終にお釈迦さまは、一歩踏み出して説法に出ようとされます。スジャータの布施からちょうど七七、四十九日目のことでした。 そして250キロ離れた鹿野苑にいるはずの、共に修行をした5人の仲間を尋ねていきます。これが世に言う「初転法輪」です。その5人の仲間と共に瞑想修行を指導して暮らします。おそらく何日も何日もかかったことでしょう。 そしてある日、コーンダンニャが言うのです。 「お釈迦さま。分かりました。この世は苦しいのですネ」 と。お釈迦さまは、それをお聞きになって 「コーンダンニャがさとった。コーンダンニャがさとった」 と2度繰り返しお喜びになります。 多くの経典がお釈迦さまの言葉を伝えてくださっていますが、2度繰り返しお喜びになっているのは、じつはこれ一度きりなのです。どれほどお釈迦さまがお喜びになったのかがよく分かります。
 お釈迦さまは、何をお喜びになったのでしょう。おそらく自らと同じおさとりを開かれたのを聞いて、独りではないということをお喜びになったのでしょう。

 ここで親鸞聖人に帰りましょう。親鸞聖人もお釈迦さまと同じように、何ものも頼りにならないことをお感じになったのでしょう。
  煩悩具足の凡夫とは、私は私自身をアテにしては生きていけないことを言い、火宅無常の世界とは、今生きているこの世界はまったくアテにできない世界であることを説いておられます。「よろずのこと、みなもてそらごとたわごと、まことあることなし」と、この世がまったくアテにならないことをお嘆きになっておられるのに、「ただ念仏のみぞまことにておわします」と、そんな私にお六字の南無阿弥陀仏と仕上がって、この私の口から出て来てくださるお念仏は、お前は独りではない、
 私がここに居ると呼びかけておられる阿弥陀さまそのもののおはたらきなのでしょう。だからこそ、そのおはたらきを真実であるとお示しくださっておられるのです。 つまり、親鸞聖人はコーンダンニャのように「この世は苦しいのですネ」と見破られ、そこに、お釈迦さまが私たちにお教えくださった、阿弥陀如来のおはたらきがはたらいておられることをお喜びになっておられるのです。
 まことに親鸞聖人は只人ではありません。本当のご苦労を知られ、真実としてはたらいてくださっている南無阿弥陀仏をお示しくださり、お念仏を申すたびに真実に出遭うことのできたことを、私と一緒にお喜びくださっているのです。 口々にお念仏を称えさせていただいて、御開山さまとご一緒に歓ばせていただきましょう。

釋誠隆