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金子みすゞ いのちのうた

 


 

上山大峻と外松太恵子という
優しい心の持ち主二人が、
金子みすゞの詩を通して、
私たちの優しさを引き出す
 

優しさの奥にある強さ

金子みすゞの詩が素晴らしいということは、昨今マスコミで広く取り上げられているので、知らない人はいないだろう。しかし、その詩の奥に浄土真宗の生活によって積み上げられた精神的土壌がある。

これまでは、金子みすゞが主題へアプローチする際の特徴だと見られていたことではあるが、上山はほんの近くに生きていた者として、彼女の心の背後にある精神的土壌を見破っている。

その土壌こそ、「今この時に救われている」という強さであろう。難しい言葉は一言もないが、金子みすゞの詩の中には凛とした強さがある。だからこそ優しさがあるのである。

癒しは癒しになるのか

昨今の世の中は「癒し」がトレンドなのだそうだ。なんでもかんでも「癒し」と言う。音楽から映画まで「癒し」が求められている。

しかし、そのような刹那的な「癒し」が本当の意味での癒しになっているのだろうか。たんなる清涼飲料水となっているだけではないのか、と最近とても心配になっているのである。

それは、おそらくは自らの「苦」を直視していないことからくる刹那的な行動なのではないだろうか。「本来幸せな私が、何かの障害によって、今ちょっとだけ不幸せなのだ」という、甘い認識の上に成り立っているからこそ、刹那的な「癒し」によって救われるのであろう。

その刹那的な「癒し」を求める姿勢をこそ、上山・外松の二人は読者の目前に曝しだそうとしている。暴かれた自分自身は、満身創痍の「苦」の塊であり、「癒し」などの点滴では救われないほどなのだと、自らが認識しなくてはならないだろう。

これこそが釈迦が我々に教えてくれたことであり、そのためにこそ悟りへの営々と努力を続けなくてはならない、修行階梯が必要なのである。

包み込む人がいる

それなのに私はそれすらも分からない。だからこそ大乗仏教が必要とされたのであり、現実の苦からさえ眼を背けようとする私を救わないではおれないという大乗仏が現れてくれるのである。そして、その極致こそが「阿弥陀如来」という仏であり、現実の苦をも直視できない私を、仏の側からすくいとろうと働きかけていてくれるのである。

その大いなる仏の働きの中にあることを、幼少のころから体に染み付かせていた金子みすゞだからこそ、彼女の童謡は「辛らつ」であり、着眼が「新鮮」なのである。

それは妙好人の多くが残していてくれる言葉と瓜二つであり、何にでも驚く姿こそ妙好人の言葉そのものと言ってよいだろう。

上山先生と外松先生は、そのことを私たちに教えてくれています。

今も教えていてくださる

こんなに私のことを思っていてくださる方がいてくださるのよ。そのことに金子みすゞさんは気が付いたのネ。だから、優しくなれたし、こんなに優しい詩が書けたのね。

金子みすゞさんは疲れてしまって、自分で逝ってしまったの。

でも、きっと本当に強い方なら、許してくださるわネ。優しく抱き取ってくださるはずだわ。だから、金子みすゞさんはきっとその方のところで幸せになっておられるわね。

こんな風に外松先生ならおっしゃるでしょうか。

大経には、浄土に往生した衆生が仏菩薩となって、娑婆の私たちに説法をしてくれているそうです。そのお一人が金子みすゞさんなのでしょう。私たちに、こんなに強くて優しい仏様が居てくださるのよ、と今も教えていてくださいます。


金子みすゞ いのちのうた
上山大峻,外松太恵子共著
JULA出版局,\1,000.
ISBN4-88284-291-2

 上山大峻先生は、まもなくお辞めになりますが龍谷大学の学長です。日本における敦煌学のブルドーザと呼ばれており、重鎮と呼ばれても良い人なのです。
 しかし、お人柄は飄々としておられ、かなりの照れ屋です。だから、とってもシニカルなことを言いますので、誤解されることも多いのです。

 外松太恵子先生は、とっても可愛らしい方です。お歳は知りません。知っていても、そんなことを感じたこともありません。
 二人だけでお会いしている時は、時間の経つことさえ忘れて、いろんなお話をします。ほとんど恋人同士のように‥‥。

 お二人とも、ボクの人生にとって、きわめて大きなターニングポイントを作ってくださったお方です。
 そのお二人が本を出すなんて‥‥ちょっと嫉妬したりして。