日本仏教はそれほど?

この文章は、
“諸君!”平成14年9月号 pp.236-251
江戸のダイナミズム --- 古代と近代の架け橋 (9)
西洋にも中国にもない独創的聖典批判
西尾幹二著
に関する、批判的随想です。

 この論文の中で著者は、あくまで江戸期における日本仏教の成果としての「富永仲基論」を述べようとしているのであり、それ以前の日本仏教の成果を論じているのではないことは承知している。しかしながら、いくつか著者に日本仏教学に関する誤解があるようなので、ここにそれを糺しておきたいと思う。
 理由はいくつかあるが、著者が偏った仏教学者の結論を引いていることで、上代・中世の日本における仏教の流れを把握していないのではないかと考えるからである。

 この論文の中で著者は、増谷文雄、渡辺照宏、三枝充悳、中村元などの仏教学の巨頭の文章を引いているが、すべて関東の学者ばかりである。それが一概に悪いわけではないが、彼らは明治期以降の西欧の仏教学を流れを汲む人たちであり、日本古来の仏教学を伝えた人とは考えられない‥‥つまり、日本仏教がどのような形で聖典批判をしていたのかを正しく伝えているようには見えない人たちである。
 日本仏教は、各寺・各宗派で連綿と伝えられていた。少なくとも明治期に時の政府の思惑によって廃仏毀釈が行われるまでは、師資相承はかなり厳密に行われ、しかも江戸期の幕府による寺檀制度の中でも、少なくとも何度かの改革を経ながら、学問として欧米各国の仏教学には負けないだけの基礎知識と体系、さらには独自の方法論を伝えていたのである。
 このことを日本人は、しっかりと覚えていて欲しい。
 日本の常識は、西欧の学問からはるかに遅れた江戸期、封建制度に凝り固まって暗黒の江戸期、そんな時代にまともな学問などありえないとするものであろう。しかし、江戸期は暗黒などではなく、極めて自由な学問ができ、しかも広範な情報を世界中から獲得することのできた、当時の世界の中でもスバ抜けて情報収集が容易だった時代であり、それを使った研究も自由だった時代なのである。
 もちろん、この論文もそれを立証しようとして書かれたものであることは間違いない。その論証には敬意を表するものであり、大筋に関して異論があるものではない。

 しかし、ただ富永仲基ひとりをとり上げて、彼にのみ聖典批判があったとしたり、江戸期の仏教が聖典批判を全くないがしろにしていたと理解することは大きな間違いであると考える。
 言わば、仲基は在家の‥‥日本仏教の内部の人間ではなく‥‥人間であり、その人間が仏教を研究したということは、人間が犬を噛んだというようなことなのであって、その意味で注目に値することなのである。

 ここで、少し仏教について語っておかなくてはならないが、せっかく著者が『バウッダ』を引用しているのだから、仏教はいわゆる宗教ではないことを書くべきであっただろう。仏教はインド・中国から伝わった学問体系であり、その中に宗教的な部分もあるということなのであって、それを古来から「宗教」と呼んでいたのである。(このことは、当該論文にも書かれている。)つまり、大乗経典が歴史上の釈尊によって書かれたものであろうが、象徴としての大乗仏によって語られたものであろうが、それを信じるという点において何らの障害にもならないことは論を待たない。

 それでは日本仏教の中に大乗非仏説があったのか‥‥と反論があろうと思うが、じつは連綿とあった。それを大声では主張しないまでも、引用しないと言う方法で区分していたのである。いくら釈尊を祀り上げる仏教徒であったとしても、あれほど大部の経典すべてを釈尊一人が語り尽くすことができないことは、誰にでも理解できるのであって、人間としての釈尊という視点が欠落したまま経典を見ようとすることは、論理的にものごとを考える研究者にはあり得ないことである。
 しかし日本の常識では、僧侶が論理的に考えるなどあろうはずがない、ということになるのかもしれないが、それがすでに明治以降の歴史学に騙されているのだと考えたほうがよさそうである。
 少なくとも 江戸期の真義真言宗豊山派の快道が、高野山の一切経の修復と校合を続けた結果として、大乗は歴史上の釈尊の作ったものではないことを見破っている。しかも、それは大勢の僧侶に語り伝えられなかったにしろ、当時の学問僧たちには伝えられており、しかも異論が出たということもない所からすると、定説としてすでに流れていたものと考えて良いと思われる。

 以上のように、日本仏教が著者によって想定されているような不合理なものではなく、とりわけ江戸期の日本仏教の様相はかなり合理的な自由な研究が盛んであったと言わねばならない。この点において考え方を改めていただきたいと思うのである。それ以外の点においては、大筋異論はなく、よくまとまった論だと考える。