東西思潮と仏教思想

武邑尚邦

はしがき

今日、国際化の進展する中で国際間にいろいろ難しい問題が生じている。経済摩擦や貿易の不均衡など、ことに民族問題は厄介な問題である。ところで、このような種々の問題の根底となっているものは、一体何であろうか。それには種々の要因が考えられるが、見逃してはならないことは、そこに住む人々の人生観、世界観の問題である。厳密にいえば人には人それぞれの人生観なり世界観があろう。しかし、それらが生活環境を支配する風土に影響され、また共通する民族性の制約をうけていることは否定できないであろう。

今、ここで東西思潮と仏教思想という題目で考えようと思うのは、以上のような視点にたって、今日おこっている問題にたいして、その実体を明らかにし、仏教者の在り方を思想的に尋ねようと思うのである。ところで、此処に東西といったのは、言うまでもなく東洋と西洋のことである。具体的にはアジアとヨーロッパといってもよいであろう。この両者の思想の流れを東西思潮といったのである。このアジアの文化圏とヨーロッパの文化圏における思想の流れを考え、その中での佛教の思想の展開を明らかにしながら、今後の仏教の果たす役割を考えようと思うのである。

勿論、このようにアジアとヨーロッパという二つの文化圏を設定することには問題があろうとは思うが、この点については、おいおい明らかにしてゆくとして、最初に考えておかねばならないのは、思想という言葉についてである。かつて、田中美知太郎博士は昭和40年に平凡社から出版された「思想の歴史」という叢書の中の「ギリシヤの詩と哲学」と題した第一巻目の初めに、思想について哲学者らしい見解を述べている。即ち、思想とは単なる知識でないことを明らかにし、しかも思想は人間と世界を支配するものであるというのである。というのは、知識は知られる事柄に対する真理性と客観性をもって形成されていなければならないから、知識には論理性と合理性が備わっていなければならない。ところが、思想とはこのような知識の根底に横たわっている「人間の思い」であるから、それは知性的や理性的ではなく、寧ろ感性的であり、情緒的であって、人間の日常生活の中にあって、人間を動かしているものであると。

例えば、流行だとかファッションだとかいって、奇妙な服装をしたり、他人のことなど全く無視した傍若無人な振舞いなど、それらは明らかに知性的とは言えないが、だからといって、それは人間的ではないとはいえないであろう。そのような服装をしたり、行為を行わしめるものは、人間が本来的にもっている感性的な衝動に基礎づけられた想念であり、このような想念は一種の思想といってもよいであろう。この他にも亦た自分の生命を危険にさらしながら、苦しみに堪えようとする冒険心や命を賭けても守ろうとする犠牲的な行為をなさしめるのも、人間の心の底にある想念であり、残虐さを伴うような英雄的行為も理屈ではどうにもならない人間の想念によると思われるのである。人生生活の中で我々の行為を考えると理屈に合わないことが多い。しかし、科学や哲学などという知識的論理的なものも、実はこのような感性的な、時には衝動的でさえある人間の想念に根をもつものであり、これを広い意味で思想ということができるであろう。

勿論、人間の社会生活において、科学とか哲学とかいう知識的なものが、凡ての面で広く働いていることはいうまでもない。しかし、このような学問的なもののもっている合理性とか論理性とかが、日常の人間生活をじかに動かしているかといえば、そうではなく、それはむしろ、非合理的な人間の心情や非論理的な情緒であるといえるであろう。即ち、それはある種の感性的な衝動でさえある“人間の思い”である。思想とは、このような広い意味での“人間の思い”である。

ところで、このような人間の思いが形成される場合、その根底にあって、それを形成する契機となるものは、人間が自らに固有する身体的肉体的な所有衝動と精神的概念的な創造衝動である。この中で、ことにその身体的肉体的な所有衝動は、人間の本能それ自身の働きであるといえるであろう。それは自然によって造られ、与えられた形を、その形のままで維持し、保持しようとする人間の衝動的欲望である。その点、このような衝動は過去にかかわる過去的なものといえるであろうし、それは人間の生存を固定化し習慣化するものである。簡単にいえば、変化を嫌い、現状のままで、じっとしていたいという人間の欲求である。しかも、このような所有衝動こそ人間生存を根底において支えているものであり、人間生存の在り方は、この所有衝動によって固定化され、習慣化され、人間の生活習慣をつくりあげてゆくものである。勿論、このような所有衝動は人間にとって本能的なものであるから、すべての人間に共通的であることはいうまでもないが、遺伝形質によって形成された身体が、風土性や民族性によって大きく影響をうけることは当然であろう。

ところが、このような身体的な固定化と習慣化を常に打ち破り、それを否定してイデア的無限創造的に自己を形成しようと働くものが第二の創造衝動であり、人間の文化創造はこれによって、無限に進められてゆくのである。即ち、ただ環境に支配されるのでなく、自分で自分の環境を創造し、風土性をも超えて新しい世界を創造してゆこうとする人間の意欲として顕現するのである。この人間のもっている創造衝動こそ人間を動物から区別するものであり、人格形成や文化形成の根源となるものである。

以上のように、人間は基本的には身体的存在として、自然によって与えられた形をそのままに維持しつつ、その身体的存在をイデア的に否定しながら、無限に自己を創造してゆくという行為的存在であるといえるであろう。人間の文化は、このような行為的世界の中で形成されるのである。その点で、人間の思想はこの二種の衝動の働きを根底として形成されるといえるであろう。

自分は、今ここでイデア的に無限創造的にはたらく創造衝動が、やがて知識化されてゆく場面での思想をとりあつかうのでなく、風土性や民族性を根底として歴史的社会的に展開する“人間の思い”が形成した今日の東西の思潮にたいして、思想としてとらえられる仏教思想が、現代求められている新しい世界秩序の形成に如何に関わるべきであるかを考えようと思うのである。しかも、このような企ては、既に故人となられたが、『ギリシヤの哲学』という大著を残された恩師である哲学者山内得立博士の次にしめす大文字に触発されたものである。

ヘラスは地理的にはエジプト、バビロンと近接し、これらと交流しながら、しかも、その独自性を失わなかったところに、ヨーロッパ文化の根源的な異義をになっている。それは、その意味において、まさしくヨーロッパ的なるものの創建を任務としていた。

ギリシャが早くもペルシャと戦わねばならなかったことは、殆ど運命的であるといわねばならないであろう。この両国の境界は東西文化の分水嶺であったからして、運命は、此処に明確なる一線を画さねばならなかった。

ヘラスの人々によって造られた文化はローマ人によって継承され、地中海世界を現出したローマによって傳播せられた。それは山を越えてヨーロッパ大陸に蔓延し、さらに英国を経てアメリカに及ぶ大西洋文化を発達せしめた。

これに対してアジア的なるものは、インドに入り、シナに伝わって日本に達するに及んで極り、太平洋を隔ててアメリカに対峙せざるを得なくなったのである。

現代の世界は太平洋を中心として、日米の相争うべき時代に際している。そうして、この闘争は既に紀元前5世紀に始められたペルシャとギリシャの闘争に遠き源を発しているのである。我々は、そこに悠久なる歴史を顧みると共に、その必然性を深く思わねばならないであろう。

さて、この文章は昭和19年、太平洋戦争の最中のものであるが、日米両国の運命的な関係を今更ながら思い起さしめるものがある。

昭和20年(1945)日本は戦いに敗れ、再び立ち上がることはないであろうといわれる程、悲惨な姿となった。それから50年余、今日日本はかつてない世界の第一級の先進国として、先進5ヶ国会議のメンバーであり、経済的には最大の債権国として世界経済を左右する程の国となった。ところが、敗戦後アメリカの核の傘の中で成長してきた日本は、今日その保護国であったアメリカとことごとに衝突するという状態である。これを貿易摩擦といっているが、それはまさに文化摩擦というべきであろう。両者の根底にあるアジアとヨーロッパという文化の相違に根をもっているのである。といって、これを単に運命的であるとしてあきらめてはならない。このような文化摩擦を克服する道をさがさねばならない。そのためには、まずお互いに相手の精神の底にながれている人々の思いを尋ねなければならない。実はこのような発想の中で、仏教の果たしうる役割を尋ねようとして、この研究をおもいたったのである。

 

第1章 民族文化とその風土性

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さて、ある種の風土の中で永い歴史的経過を辿って形成されてきた民族の思想を、風土を異にする民族が相互に理解しあうことは難しいことである。しかし、困難は多いとしても、それを乗り越えて相互に理解しあう努力がなければ人類は、今日では生き続けることのできないような状態となりかねない。お互いが相手の思想に同化することは、その環境の中で三世代も四世代もかかるであろうし、或いはそれでも不可能かもしれない。今我々は、此処でこのような同化を問題にしようと思わない。相互に相手の思想を忠実に理解することを試みようと思うのである。そのためには、まずお互いが異なった立場にあることを自覚して、他の思想にたいしては、それを取扱うのに寛大でなければならない。

いま、このような観点にたって、先ず第一にアジアとヨーロッパにおいて、永年にわたって、それぞれの文化を育ててきた文化形成の風土性について考えようと思う。というのは、それぞれ異なった民族の文化は、その民族の住んできた風土と、そこで起こった種々の歴史的事象を反映しながら形成されたと考えられるからである。ところで、この風土という問題に関して思い起こすのは、和辻哲郎博士が昭和10年、『思想』150-154に連載された論文“牧場”である。そこに次のような文章がある。

自分達がモンスーン地方から砂漠地方を経て地中海に入り、古のクレータの南方海上をすぎて、イタリア南端の陸地を瞥見し得るにいたった朝、まず吾われをとらえたものはヨーロッパの緑であった。
 それは、インドでもヨーロッパでも見ることのできなかった特殊な色調の緑であった。頃は丁度“シチリアの春”も終りに近ずいた3月の末で、ふくふくと延びた麦や牧草が実に美しかった。が、最も自分を驚かせたものは、古くマグナデレキアに続く山々の中腹、灰白色の岩の点々と突き出たあたりに同じように緑の草の生き育っていることであった。
 羊は岩山の上でも岩間の牧草を食うことができる。このような山の感じは自分には全く新しいものであった。

この文章を読んでいると明治大正の時代に、その青春時代を過ごされた先生方の詩情の豊かさに感心するのであるが、ここには、新鮮な感覚による自然への深い洞察がしめされている。今日のように飛行機で旅するのでなく、景色を眺めながらの船旅の旅情のゆたかさが感じられるのである。モンスーン地帯から砂漠地帯を通って、現前に現れたヨーロッパの緑、それは本当に驚きであったにちがいない。それが、砂漠地帯の緑と異なることは勿論であるが、緑豊かな日本や南方中国のようなモンスーン地帯のそれとも異なっていたのは、確かに驚きであったであろう。先生はこの不思議さを驚きをもって帰り、当時、京都大学の農学部の教授であった大槻先生にこのことを話されたところが、大槻教授は“ヨーロッパには雑草が生えないからである”と説明されたと。これを機として先生は文化の風土性について、真剣に考え始めたといわれている。そして、「文化にとって、その歴史性と風土性は楯の両面のようなものである」といわれる。

確かに風土性をもたない歴史的形成物は存在しないし、また歴史的性格をもたない風土的形象も存在しない。我々が歴史的形成物の中に風土性を見出し、風土的形象の中に歴史を読み込むことが文化を理解することであろう。この両者のいずれを欠いても文化の正しい理解は得られないであろう。いわば歴史性と風土性こそ文化形成の基本である。風土が人間生存の基礎部分に作用し、人間の人格を形成し、このような人間が自然と如何に関わるか、その関わり方によって文化の正確に違いが生ずると考えられるのである。例えば、モンスーン的風土〈冬には西北の風が吹き、夏には南東の風が吹く地帯〉の土地では人々に感性的情緒的な洗練さが見られ、牧場的風土では人間の知性の輝く理性的洗練さがみられ、さらに砂漠的風土では人間の情念の燃え盛る激しい情熱のたぎりを見出すようである。

ところで、このような夫々の風土のもつ特性は、風土のもつ暑熱と乾燥と湿潤という三つの要素の組合わせによって現れるのである。即ち、モンスーン的風土では、暑熱のもたらす湿潤性が強く作用し、牧場的風土では湿潤と乾燥がバランスよく結合し、砂漠的風土では暑熱と乾燥の総合が作用する如くである。

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さて、文化の風土性という問題について、日本文化をとりあげて考えてみよう。周知のように日本列島は夏は南東の風、冬は西北の風とまさしくモンスーン地帯である。したがって、ここは雑草の生い茂る地帯である。それは夏の暑熱と湿潤のためである。春四月五月の温暖な気候の中で、いろいろの草が芽をだす。しかもその草の芽は、やってくる梅雨の湿りと雨によって、たっぷりと水を含む。そこへ夏の暑熱がやってくる。草は自然のままに生い茂るのである。そこで、もしこの時、人間が手を加えるか、動物がそれを食するかしなければ、河原でさえ雑草に蔽われてしまい、土地は荒廃し荒れ地となってしまう。今日人間の手のはいらなくなった山林の状態は、これを示している。

この雑草の旺盛なせい活力に力を与えるものは、風土としての暑熱と湿潤である。しかし、やがて夏の終わりから秋にかけての木枯らしによる落葉は、根に栄養を与え樹木に力を与えるのである。しかも日本の冬は寒いといっても樹木の根まで枯らしてしまうことはない。それは、夏の暑さも冬の寒さも、共にモンスーン的風土のもつ湿潤によって和らげられるからである。これが、日本の文化を感性の豊かな情緒的なものにしている原因と考えられるのである。

ところが、ヨーロッパの場合は暑熱と湿潤が結合しないのである。即ち、夏の乾燥と冬の湿潤とが結び付かないのである。西北のヨーロッパの冬の寒気の厳しさも、南ヨーロッパの夏の暑熱も、ともに適度の湿潤と結びつかないのである。そこで、雑草が生えないのである。このような牧場的風土のヨーロッパと違って、モンスーン的風土の日本では木枯らしの吹く寒い冬の間を除いて、春夏秋冬四季を通じて雑草との戦いである。農業は雑草との戦いの中で行われる。除草は農業生産の中での重要な作業である。今日大問題となっている農業の被害を考えれば、このことは明らかである。いわば、わが国の農業は自然との戦いの中に行われているといっても言い過ぎではなかろう。もともと南方熱帯地方で行われていた米作を温暖の日本列島に持込み、これを北の寒冷地域にまで広げていった日本での農業は、まさしく自然との戦いであった。除草の為に労力を使ってきた農民の苦労は、今日では機械や農薬や化学肥料の使用によって軽減された。しかし、そのために生産物は薬害をうけ、土地は痛めつけられ、かつて何処にもいたミミズの姿がみえなくなった。そのため野鼠の被害は少なくなったが、農地は堅くしまって地中への酸素の供給が出来なく、土地は呼吸を止めて荒れ地となり、それが自然破壊となってゆくのである。

以上、述べてきたように、この自然との戦いの中で、かつて人々はその自然からの迫害を和らげようとして自然を祀り、自然の中に神を拝んできたのである。このような自然の中に神霊を拝んできた日本人の自然崇拝は古い神話の中にこれをみることができるし、今日盛んに行われる地方のお祭りは、なんらかの形で自然崇拝と結びついている。ところが、今日科学技術の進歩の中で、このような自然にたいする畏敬の念は失われ、今まで戦いの相手であった自然を人間本位に利用し、今日世界第一の自然破壊者のレッテルを張られるようになってしまったのである。南方ボルネオの自然林をはじめとする世界中の自然林の破壊、海中生物の乱獲、象牙の採取のための象の無闇な捕獲など、自然を恐れざる人間の姿を露呈しているのである。しかし、この現状は、逆にモンスーン地帯に育った日本人が自然に畏敬の念をもっていたことを示し、その文化の性格がどのようなものであったかを物語っているのである。

ところで、他方ヨーロッパでは、土地は一旦開拓すれば人間に従順であり、自然に蒔いた種子を育んで立派に生長せしめ、土地が雑草に蔽われて荒れるということはない。そこでは、自然との戦いの農業という発想は生まれようがない。冬の湿潤は土地に適度の湿気を与え、夏の乾燥は害虫を少なくし、同時に土地を肥やすことになる。小麦や牧草は種子を蒔いておきさえすれば、その成長に人間の手を煩わすことは、殆ど必要がない。自然それ自身の働きは、人間との戦いを戦うことなく、そのまま人間の利益となるのである。

このように、農業という場面を考えてみても、モンスーン的風土と牧場的風土との間には、非常な相違がある。日本人は自然に畏敬の念をもちつつ、自然の中に神を見、それを祀ることによって、神の加護を願ったのである。これに対してヨーロッパの人々は自然の従順さを利用して、自然の善意を信じ、その力を自分等の意思に従わせるという自然愛に生きてきたといえるであろう。

ところが、一般的には…実は自分もそう考えていたのであるが…日本人は自然を大切にし、自然と一体感をもって生き、人間も自然の一員であるという考え方の中で、自然を食し、自然の色を着、自然と通いあう住まいに住み、衣食住共に自然を生きてきたと考えているのではなかろうか。春の花見、秋の紅葉、冬の雪見、自然をよんだ詩や歌、ここには、日本人の自然との一体感が見られる。これに対して、自然を人間の外に見、自然を征服し、自然支配に生きたのがヨーロッパの人々であったと考えられているのではないだろうか。

ところが、このように考えることは、どうも原初的には正しくないように思われるのである。即ち、ナイ河の氾濫に悩んだ人々が、それを克服するために考え出したのが天文学であり、数学であったといわれる。勿論、これらのものが学問となったのはヨーロッパにおいてであり、エジプトではそれらは学問ではなく、天文、数学、地理は技術であったと考えるべきであり、まさしく砂漠地帯に起こった自然征服の技術であったと考えるべきだろう。とすれば、自然征服は砂漠的風土の中に現れたものであり、その技術を学問化したのはヨーロッパの牧場的風土においてであったといえるであろう。

以上のようにみてくるとき、文化の形成の場において風土性が如何に大きな意味をもっているかが知られるのである。いま、これらを整理すれば、次のようにまとめることができるであろう。

 

モンスーン的風土

感性的情緒的文化

〔生む〕

砂漠的風土

感情的情熱的文化

〔造る〕

牧場的風土

知性的合理的文化

〔できる〕

 

V

さて、以上に述べてきた、風土性による文化形成の特徴の相互の関わり方をアジアとヨーロッパという二種の文化を中心において考えてみよう。

古い時代、アジアとヨーロッパという二つの世界を考えていたのはギリシャ人であった。地中海を挟んで対峙しているアフリカは、彼らにとってはアジアの一部と考えられていたのである。ところで、アジア・ヨーロッパという言葉の語源を一義的に規定することは難しいが、B.C. 25th -B.C. 24th頃から地中海の東岸シリアに、主として商業にたずさわり、B.C. 13th頃にはエジプトやメソポタミヤの影響の中で活躍し、特殊な混合文化を発達せしめた古代フェニキア人が“日の出る国”をアスと呼び、“日の没する西方”をエレブといったのが、後にAsia, Europとなったといわれている。

この二世界の中で、アジアとはユーラシア大陸の東の部分と、それに隣接している処をいう。それは北からウラル山脈、ウラル川、大コーカサス平原、黒海、地中海、紅海への線とインドによって境界づけられる地域である。また、ヨーロッパとは、ユーラシア大陸の西の部分であり、トルコ、ソビエトを除く地域である。

さて、このようなアジアとヨーロッパとの接点にあり、しかも南はアフリカ大陸、東はアジアに囲まれた地中海に突き出ているのがギリシャ〈ヘラス〉であり、それはヨーロッパの触手であるといえるであろう。即ち、ヨーロッパが近隣諸国の文化を採り入れる手であったのである。また、それは同時にヨーロッパ的なものを他の世界に送り出す手でもあったわけである。いわゆる地中海世界の中心にあったのがギリシャであった。

この触手としてのギリシャは、対岸のエジプトや、例のチグリス・ユーフラテス両河の三角州であったバビロンなどとの交流を通じて、これら先進国から文化を輸入したのである。即ち、エジプトからは数学を、バビロンからは天文学を夫々輸入したのである。勿論、先に述べたように、それは決して学問的なものではなく、エジプトの数学は、ナイル河の氾濫を防ぐための土地の測量や、ピラミッドの高さを計るという技術的なものであり、バビロンの天文学も天体観測を行うための占星術を目的としたものであった。しかし、それを受け入れて、学問としたのはギリシャ人であったし、その根本となったものはギリシャ人の本来もっていたロゴス〈Logos〉の精神であり、それこそギリシャ的知性である。即ち、ギリシャは東洋の文明を吸収して、それを彼ら独自の合理的知性によって、哲学や科学にしあげたのである。このようにして育ってきたのがヘレニズムであり、まさしく牧場的風土の中に生まれた文化であり、これがヨーロッパ文化の主流となったのである。

エルヴィン・ローデ〈E. Rode〉は“Die Religion der Griechens. 27に「神秘思想はギリシャ人の血液に於いては、外来的な一滴の血液であった」といっているが、ギリシャ人の血の中においては、宗教と謂われるようなものは不似合いであった。「清澄」と「透明」が支配しているヘラスの土地では「明確」と「具象」とが求められたのである。暗くて曖昧で、凡てが蔽われているような神秘思想はなかったといってよいであろう。しかし、打からといって思想の未分化の状態にあると考えられる神話的な神秘精神がなかったかといえば、それは嘘になるであろう。

即ち、ギリシャの神話も宇宙の創世や神々の誕生から始まるが、それはスカンジナビア半島にあるデンマーク・スェーデン・ノールウェーなどの構成民族である北ゲルマン民族ノルマンディが伝えてきたような天地創造や建国、英雄などの神話にあるような悪魔的な陰惨な荒涼とした魂のさすらうような神話ではなかった。例えば、北欧神話が「太初には何もなかった。砂なく海なく、地も天もなく、一本の草さえもなかった。ただ、巨大な淵が口を開けているだけであった。」という文章ではじまり、その巨大な淵の北には氷の世界ニフルヘム、南には炎熱の世界ムスベルヘイムがあり、その熱気は氷を溶かして水滴となし、その水滴でできた巨大な氷塊が、巨大な淵ギレヌンガ・ガップを満たし、その氷塊から巨大な悪魔イミルが生まれ、同じくそこに生まれた巨大な雌の牛の乳をしゃぶって、その脇の下、足の間から子供を生んだ。これが“霜の巨人族”であるという如くである。

以上のような北欧神話にたいして、ギリシャのそれは、人間的であり、豪壮な物語である。しかも、このギリシャ神話を語らしめるモチーフとなったものは、ChaosからCosmosへという思考である。このような考え方は、中国の准南子の説く混沌から秩序への考え方とおなじであろう。さらに、わが国の『日本書紀』に、この説は受け継がれてゆくのである。カオス〔混沌〕とは、これを人間の精神の状況でいえば、それは神秘的な神話の世界である。神話Muthosとは、ぶつぶついうmuを基とする言葉である。ギリシャには早くからエジプトのイシス信仰やペルシャのミトラ儀礼がはいってるが、それらはギリシャ本来のものではない。ギリシャ人にとっても最も親しいものは、彼らを生んだ天地であり、自然であり、彼らの生活に関与する神々であった。

神話は常に人間と自然と神との融即の上に成り立つのである。しかし、そこでの自然は人間化された自然であり、人間は神話化された人間である。また、人間化された自然は、広く生物化されて人間の世界に入ってきて、さらに人格化されて人間世界の一員となり、そのような世界の中で人間は神格化されて人間を超越した霊格をうるのである。

さて、この神話を貫いているものは全一の精神であり、融即の論理である。しかし、それは論理といっても、未だ未分の状態にあり、これがChaosなのである。このようなChaosとして未分の状態にあるMuthos〈神話〉は、やがて神話として語られるものとなるのである。即ち、Logosとなるのである。このようなギリシャ神話の性格は、ヘシオドスの「神統記」に次の如く語られる。

まず、原初にカオスがあった。次に、永久に揺るがぬ座として胸幅の広い大地〈ガイア〉と、さらに不死なる神々の中で最も美しく万物生成にはたらきかける力の愛、即ち、エロス〈Elos〉があらわれた。

さて、カオスからエレボス〈闇〉とニクス〈夜〉、即ち、冥界と天上界との暗黒が生じた。次にエレボスとニクスは交わって輝く空の上方の部分であるアイテールとヘメラ〈昼〉を生んだ。

次にガイアは第一に彼女自身と同じ広さの星の輝く天ウラノスを生んだ。天が大地をすっかり覆い、至福なる神々の永遠の座となるようにと。次に第二に樹木の生い茂る山々に住む女神ニンフたちのこよなき住家として高い山々を生んだ。さらに、第三には、彼女は甘美なる愛の営みなしに大波の荒れ狂う海洋ボントスを生んだ。

さて、つぎにウラノス〈天〉とガイア〈大地〉とが結合して生じたのがチタンの神々とよばれる男女各々六人の神々であった。即ち、オケアノス〈渦巻、大洋〉、コイオス、クリオス、ヒペリオン、イアベトス、クロノスの男神とテイア、レイア、テミス〈法〉、ムネモシネ〈記憶〉、フオイベ、テチスの女神である。

さらに、ウラノスとガイアは一眼巨人アルゲス〈閃く光〉、ステロベス〈電光〉、ブロンテス〈雷鳴〉の三人の凶悪な百手巨人ヘカトンケイル、即ちコトス、ブリアレオス、ギエスを生んだ。ところが、ウラノスがこれらの子供を大地の奥に閉じ込めてしまったので、ガイアは怒って、クロノスに金剛の斧を与えて報復を命じた。クロノスはその斧で父の生殖器を切り落とした。このようにして、クロノスは、支配権を奪い、世界に君臨することとなったのである。

ヘシオドスは、以上のような宇宙の生成と、これに続く種々の神々の出生を説く。ここでは、世界の秩序の成立の模様が述べられているが、このクロノスの息子がゼウスである。さて、このゼウスは世界を支配するために、巨人と戦うのであるが、この戦いにゼウスを助けたのがゼーロス〈競争〉クラトス〈権力〉ピエ〈暴力〉ニケ〈勝利〉の四姉妹であったといい、ここに示された四種の事柄がゼウスの実行するデイケ〈正義〉に従うものである。このようにして人間界が成立するのである。ところで、以上のような人間界を否定するような“禍”について次のようにのべるのである。

ニクス〈夜〉は憎むべきモロス〈定命〉と暗い死のケール〈命運〉とタナトス〈死〉とを生んだ。さらに、彼女はヒュブノス〈眠り〉を生み、オネイロス〈夢〉の一族を生んだ。また、暗い夜の女神は誰と共寝することもなくモモス〈非難〉とオイジュス〈痛い苦悩〉と輝かしいオケアノスの彼方で美しい黄金の林檎と、実を結ぶ樹々の世話をするヘスペリデス〈黄昏の娘〉たちを生んだ。

彼女は、またモイラ〈運命〉たちや冷酷な復讐の命運の神々達を生んだ。また、恐るべき夜は、死すべき人間にとっての破滅の原因であるメネシスを生んで、その後、アパラー〈欺瞞〉と愛欲、憎むべきゲーラス〈老齢〉とかたくななエリス〈争い〉を生んだ。

さて、この憎悪すべき争いは、痛ましいポノス〈苦労〉とレーテ〈忘却〉、リーモス〈飢餓〉と涙に満ちたアルゴス〈苦痛〉メーネー〈戦闘〉とアケー〈戦い〉ポノス〈殺戮〉とアンドロクタシア〈人殺し〉ネイコス〈闘争〉ブセゥドス〈虚言〉、論争と不法、アテ〈破壊〉を生んだ。このホルコスは、わざと偽りの誓いをたてるものがある時、地上の人間どもを手ひどく悩ませるのである。という。

以上のように、ギリシャ神話には、旧約聖書の創世記に出るような創造神はでてこないし、絶対的超越者として、無よりこの世界を創造するというような絶対者としての神を説かない。そこでは、この世界に偏在し、この世界の根源的な存在としての自然的な存在としての神をとくのである。

以上の「神統記」に語られるギリシャの神話が踏まえている立場は、あくまでもこの現実であり、この現実の世界の構造の始元を求めて、それを語っているのがギリシャ神話なのである。即ち、神々の創生を説いて、この宇宙の生成をしめし、人間の禍をといて人間界の苦悩の生ずる源を語っているのである。それは、自然界と人間界とを未分のままで、世界の生成を述べたものである。しかも、この神話は単に世界の生成を語るものではなく、この現実の構造を神話として語ることによって、そこに人間の理想をしめそうとしているのである。それがミュートスからロゴスへの展開として示されるのである。宇宙生成の神話から宇宙構成論への展開である。このような立場にたって、人間の思想と理想はロゴスの展開としてあらわになってゆくのである。常に変化しながら、しかも一貫して変らないもの、それが変化を支えているようなもの、即ち現象的に変化しながら本質的には変らないもの、そのようなものを始源的存在として求めたのである。この点でギリシャの哲学は存在〈SEIN〉を基盤とするものといえるであろう。

このような方向の中に現れてきたのが、ギリシャの自然哲学である。例えば、ターレスは世界の始元であり、しかも世界を包み込んで、それがコスモスを成立せしめているものとして水を求め、アナクシメネスは空気であるとし、やがてそれはデモクリトスの地水火風の四要素説となって展開するのである。

しかし、ギリシャの哲学が、これらの自然哲学を発展せしめたイオニアやイタリアのギリシャの植民都市から、やがてその舞台をアテナイに移すことになった時、哲学の対象は大きく変化した。それは「自然」から「人間」への変化であった。キケロは、この変化をソクラテスを考えながら、次のように述べている。「ソクラテスが始めて天から呼び降ろして、これを地上の都市の中におき、さらに人々の住む家の中へ導き入れて、人生や習俗、善と悪について考察するようにさせた」と。しかし、哲学の対象の転換については、ただこのように簡単ではなかったようである。即ち、ソクラテス以前の哲学者は自然をのみ対象としていたとは言えないし、また、ソクラテス以後の哲学者が、人間のみを問題としていたとも言えないからである。この点に関しては、この「自然」から「人間」への転換を人間の生育発展に喩えて、幼少年期の子供たちの関心が外的なものにあり、青年期になると、その外的なものへの関心は、段々と客観的批判的となり、やがて青年期を経て関心は人間の内なるものへと深められるようなものであるというのである。しかし、このような考え方を哲学という学問の展開に適用することは、前に述べたように適当ではなかろう。或いは、あまりに平凡な考え方といわれるかも知れないが、それを哲学の舞台の移動に求めることが、もっとも素直な考え方のように思われるのである。

ところで、このよりどころは、当時もてはやされていたソフィストを通じてソクラテスをみることである。ソフィストとは、本来知者とか賢者とかという言葉と同義である。「万物の尺度は人間である」といったプロタゴラス(B.C. 500 - 430)やゴルギアス等のソフィスト達は、人々を教える人であった。しかし、ソクラテスは質問し尋ねる人であったし、探求する人であった。結果としてソフィスト達は徳の説教で名声を博し、金を儲け、ソクラテスは誤解され、憎悪され貧乏の中に生き、ついには毒をあおって死を得たのであった。しかし、このソクラテスの自らに深く人間を問う中に本当の哲学が育っていったのである。

フィロソフィー〔philosophy〕のphilo-sopiaとは“愛知”の意味である。それは“物が何であるかを知ること”ではなくして“知ること自身が何であるかを知ることである”といわれる。まさしく、このような意味での哲学はソクラテスに始まるといえるであろう。このような思想の歴史は、ロゴス的なものから始まったのである。初めにロゴスありきとは、思想の歴史の出発がどのようなものであったかを示している。ギリシャの思想家達にとって、ロゴスこそ人間の思惟の方式であり、それがまた行為の基準でもあったのである。しかも、このロゴスとは、事実を事実として、それのあるがままの姿を理解しようとして、事物を観察し、それを正視する態度の中に現れるものである。このことはロゴスという言葉のもつ意味の上にも見られる。

さて、logosとはlegoという動詞よりつくられた名詞である。そのlogosとは第一に「集める」〈sammeln〉ことを意味している。「ある事柄の観察考究にとって、できるだけ多くの事例を集めるということは最も大切なことであり、そうすることによって、正しい判断がなされ、正しい知識を得ることができるのである」。しかし、ただ事例を多く集めるだけでは、なんの値打ちもない。そこに得られた知識は、ただ雑然としたものであり、このような知識は、我々の行為を正しく導かないばかりでなく、却って混乱を起こすばかりである。ここに、人間の知識は整理され、按配され、統一されなければならない。ロゴスはこのような統一をもとめてティアロゴスへと展開するのである。即ち、一より他を区別し、それぞれを明別し、分別することが、ロゴスの第二の働きである。これを示すのがlegoの第二の意味としての「話すこと」〈sprechen〉である。「話す」ということは、あるものと他のあるものとが話し合うという対話〈Dialog〉において、真に具体的な意味内容を持つといわねばならない。一つの言葉を意味するMonologmono-logos〉は話すことの本意をしめさない。二つの言葉を意味するdia-logosは、お互いに異なる考えをもつものが一致をめざして相互に話し合うことである。若しも一致を求めようとしないならば、それは単なる雑談である。それは独り言と同じである。このような雑談では対話の真意は達せられない。しかし、目指す一致は、また対話のみでは完成しない。それは第三者の媒介を待って始めて完成されるものである。この展開がシロギズムであり、ロゴスの統一的なものとしてのsun-logosである。かくてロゴスの働きは完成するのである。ロゴスとはこの意味で「人間の精神生活のあらゆる場面において、秩序あるもの、方式を備えたもの、合理的なもの、合法的なものを、一言にして言えば学問的なものを意味するのである」。

以上のロゴスの展開は思想の歴史においては、ソクラテス・プラトン・アリストテレスの哲学の展開を示すものである。たとえば、ソクラテスにおいて定義法といわれるものは、事物が何であるかが問われたとき、それに答えるものである。それは事物の本質を示すものである。しかし、定義法が事物が何であるかが問われた時、その問われている事物に定義を与えるということは、その事物の特性を他のものから区別し限定することであるから、それは普遍的一般的でなく、個別的特殊的である。この点で、ある事物が如何にして他の事物と区別されるのかと問う対話と違っている。といっても、ある事物を他の事物から区別して、それを定義するということには、他の否定を含んでいるのであるから、そこにはディアロゴスを予想しているといわねばならない。ソクラテスの定義法は、その点で分割法であるといわれるのである。

以上述べてきたことによって明らかなように、ある事物を定義しようとすれば、そこには必ず否定される何物かがある。たとえば、“この花は赤い”という場合、そこでは赤色以外の色をした花と区別して、この花は赤いというのであるから、赤色以外の色の否定が前提となっているのである。このように、ソクラテスの定義法には、すでにディアロゴスが前提となっているのである。このディアロゴスを哲学の方法論として確立したのがプラトンであった。ここでディアロゴスはディアレクツスとなり、ディアレクツスはディアレクティークすなわち弁証法となり、プラトン哲学の方法論として確立したのである。

ところで、弁証法的なものは、先ず二つのものを峻別するところから出発するものである。プラトンがイデアの世界と現象の世界とを区別し、更に存在的にも両者を全く別のものとしたことは、このことを示している。プラトンが二世界思想にたっていることは、彼の考え方が弁証法的立場にあったことをしめしている。しかも、その対立は青色と黄色というような反対対立ではなく、青色と非青色のような矛盾対立である。しかし、この両者は全く無関係なものは結合のしようがない。しかし、相矛盾する関係にある二つのものがどうして結合できるかについては、プラトンにとっては解き難い問題であったようである。これを解明したのがアリストテレスであった。プラトンでは大前提と結論があったが、アリストテレスはこれに小前提をおくことによってこれを結合したのである。いわゆる、シロギスムの完成である。

以上のような論理主義に立つのがギリシャ思想であり、このような知性的理性的立場に立つのがヨーロッパ思想である。人間に従順な自然という牧場的風土の中に生成したヨーロッパ思想は、このようなロゴスの精神を失うことはなかった。勿論、このような義理射的ヘレニズムに対してキリスト教的ヘブライズムの思想の流れが、ヨーロッパにはある。それは、唯一絶対の創造神による世界創造を説くものである。しかし、ヨーロッパが受容したのは、砂漠的風土の中でつくられた旧約の聖書のそれでなく、マタイ伝にはじまる福音を説く新約聖書であったことに注意しなければならない。というのは、キリスト教は本来預言者の宗教である。乾燥した暑い砂漠地帯のアフリカのエジプトで、奴隷のような労働を強制されていたイスラエル民族が、神の導きをうけモーゼに率いられてエジプトを脱出した預言者の宗教である。それは、神に選ばれた選民イスラエル民族の宗教としてB.C. 14th - 13th頃に成立したものである。

つぎに、しばらくヨーロッパにおけるヘブライズムとヘレニズムとの交渉の模様を考えながら、ヨーロッパ思想の流れとその特徴について明らかにしよう。

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さて、イスラエル民族の宗教の聖典である旧約聖書は、神と人間の関係を取扱うものである。この場合、人間は個人としてよりも集団としてのイスラエル民族であるが、神はあたかも一人の個人としての人格のごとく取扱い、自らの相手として選ばれるのである。いわゆる選民である。かれらは世界創造の神としてヤーヴェ神をたて、この神に導かれ、モーゼに率いられてエジプトを脱出するのである。この神とイスラエル民族との結びつきは「愛による契約」であった。モーゼの十戒の第一に神はイスラエルの民に、次のごとく告げているのである。

吾は汝の神、主であるヤーヴェ〈エホバ〉であり、汝をエジプトの地、奴隷の家から導きだしたのである。汝は吾のほかに何者をも神としてはならない。

ところが、この神の啓示は旧約の「申命記」では強化されている。即ち

イスラエルよ、いま汝の神エホバ〈ヤーヴェ〉の汝に求めたもうたことは何ぞや。ただ是のみ。即ち、汝がその神エホバを畏れ、その一切の道に歩み、これを愛し、心をつくし、精神をつくして、汝の神エホバにつかえ、また吾が今日汝らに命ずるエホバの誡命と法度とを護って身に福祉をうることのみ(第十章12, 13

と、心をつくし、精神をつくして神に仕えることを求めているのである。かくして、もし一生懸命に神に仕えるならば、天地は時に応じて雨を降らし、食物も豊かに得ることが出来るであろうといい、もし神に真剣につくさないならば、神は怒って天を閉じてしまうであろう。もしそうならば、食物は無く、人々は滅びてしまうであろうと、神の罰を説くのである。また、

16 汝ら、自ら慎むべし、心迷いひるがえりて他の神々に仕え、これを拝むなかれ。

17 恐らくはエホバ汝らにむかいて怒りを発して、天を閉じたまい雨降らず、地物を生ぜずとなりて、汝らそのエホバに賜れる美地より、速やかに滅亡するにいたらん。                                             (第十一章)

このようにイスラエルが神を愛するならば、神もまたイスラエルを愛し、もし神の言いつけに背いて他の神を拝むならば、神は怒って彼らを捨てるであろうというのである。このことは旧約の「愛による契約」は、実は律法(掟)の世界であったことを示すものであろう。

ところで、このような律法の立場は旧約聖書の最高峰といわれる「エレミヤ記」第三十一章の31-34

(31) エホバ言いたもう、みよ、わがイスラエルの家とユダの家とに新しき契約をたつる日来らん

(32) この契約は、吾が彼等の手をとりてエジプトの地より、これを導きいだせし日に立てし所の如きにあらず。われ彼等を娶りたれども彼等はその我が契約を破れりとエホバ言いたもう

(33) されど、かの日の後に、わがイスラエルの家に立てん所の契約は此れなり、即ち、われ我が律法(掟)をかれらの衷(うち)におき、その心の上にしるさん。吾は彼等の神となり、彼等は我が民となるべしと、エホバはいいたもう

(34) 人はもはや各々その隣と兄弟に教えて“汝は主エホバを知れ”と、またいわじ、そは小より大にいたるまで、悉く吾をしるべければなりとエホバいいたもう、われ彼等の不義を許し、その罪をまた思わざるべし

このようにして、律法としての神による契約は福音となり、後に説かれる新約聖書の真理が予言されているのである。

この契約の更改、旧約より新約ヘ、これを具体的に示すものがイエス・キリストの死、復活である。イエス・キリストの十字架上の死は、キリストの自己犠牲による人間の罪の償いである。しかし、若しそれが只の死に終わるならば、そこには何らの救いもない、それは単なる自己犠牲に終わるであろう、しかし、キリストは三日の後には墓場には居なく、復活したのである、この復活によって、人々の救いは自己貫徹的な救いとして完成したのである、このようにして、律法としての契約は福音としての契約に更新されたのである、即ち、人々は状況の如何にかかわらず、神の無条件の愛によって神との契約が成立したわけである。

この更新された神の契約を説く思想は、ヘブライズムとして、ヘレニズムの世界に生きることになる。これを果たしたのは「異邦人の使徒」としてのパウロデあった。彼によって、従来のユダヤ人の宗教という狭い民族宗教の殻は破られ、世界宗教としてのキリスト教となり、ヨーロッパに宗教的文化を打ち立てていったのである。このようにして成立したキリスト教は、その後種々の迫害を受けながら、その勢力を延ばし、ローマ帝国の統一という好機を得てローマの版図にひろがっていったのである、しかし、この拡大の中で大切な仕事は、何よりもまずローマの知識人にたいして、キリストの福音の母胎である律法宗教としてのユダヤ教との関係をあきらかにし、神の子という三位一体説の意味について納得せしめることであった、このために、これらの思想の整備が必要であった。このキリスト教の教義の構成のため用いられたのがギリシャの哲学思想であった、このようにして、へレニズムとヘブライズムは合流結合してヨーロッパ文化の基盤を形成していったのである。例えば、ヨーロッパ中世の哲学を代表するとも思われるオウガスチンの神学は、プラトンの対話の論理〈dialog〉の上に構成され、トーマス・アキナスの神学の組織構成はアリストテレスのsyllogismussun-logos〉の思想であったのである。かの三位一体の考えは、三段論法の媒概念による主客の結合の論理によるのであり、対話の論理からはでてこないのである。

このようにして、ギリシャのロゴスは、イエスによって人となり、真理はイエスにおいて、初めて完全に啓示されたのである。したがって、キリスト教こそ真理の完成であり、唯一の正しい哲学であるとされたのである。これが中世の教父哲学の成立となったのである、このようにして、ヨーロッパの思想は、ヘレニズムとへブライズムの合流の中に形成されていったのである。

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さて、ギリシャを中心とするヘレニズムの文化はカオス(混沌)からコスモス(秩序)ヘという世界構成説にたつ世界観と、ホモ・サピエンス(homo-sapience=理性的人間)という人間観にたつものである。これにたいして、キリスト教文化は神の世界創造とホモ・パティエンス(homo-patience=病める人間)という人間観にたつものである。いま、このような二様の立場の綜合の上に成立したものがヨーロッパ文化である、即ち、牧場的風土の中に育った理性の輝きと合理性をもった文化である。ところで、これにたいしてアジアとヨーロッパの架け橋であるへレスボンドから東の方はどうであったのだろうか。次にこのことをあきらかにしよう。

西紀前700年頃、現在のイランの南西部でチグリス・ユウフラテスの両河がペルシャ湾に流れこんでいる所よりすこし北で、カルン川(Karun)が北から東へ大きく湾曲している地点にシュスタル(Shushtar)というところがある。このシュスタルの東方でバフティアーリー山の麓のバルスマッシュ(Barusmashu)に定住していたペルシャ人は、約100年の間に広大なペルシャ帝国を建設した、この国のダリウス大王〈B.C. 522-486〉の時、この帝国の版図は現在のエジプト、ヨルダン、シリア、イラク、トルコ、ブルガリヤ、イラン、ソ連のトゥルケメン、ウヅペックの北境のシールーダリア(ヤケサルテス川)まで広がり、さらにアフガニスタンとパキスタンの西部の一部に亘る広大なものであつた。これがアケメネス朝ペルシヤとよばれるものである。

ところが、それから150年程してB.C.第4世紀の中頃、ペロポンネソス半島のマケドニアの戦士を率いて東方の遠征に趣いたアレキサンダ大王<B.C. 336-即位〉はヨーロッパとアジアの架け橋ヘレスポンドを西から東へ渡河してB.C. 333年、シリアのイッソスの戦いで、アケメネス朝ペルシャの軍隊を破り大打撃をあたえ、さらにインド西北辺まで長攻した。これこそ、ヘレニズム文化のアジアヘの到来であった。しかし、戦い半ばにして大王は死去、その後、ヨーロッパのマケドニア王朝、エジブトのプトレマイオス王朝、アジアのセレウコス王朝に三分され、へレニズムのセレウコス王朝もB.B. 249年頃、カスピ海東南部に独立したバルティア王国によって、メソポタミヤ地方をうぱわれ、ペルシヤヘの影響力を失い、やがてローマに吸収されるのである。

このバルティア王国は中国に安息国とよばれ、この国はユーフラテス河を挟んでローマと対峙したのである。このバルティアの独立と、ほぼ同じころ東北にバクトリヤ王国が独立した。この王国はギリシャ人を国王とするものであるから、へレニズム文化圏の最東部といってよいであろう。しかし、この国はB.C. 2th頃月氏族の貴霜王朝によってほろぼされるが、ヘレニズム文化をインド西北部や中央アジアに伝持するのに重要な役目を果しているのである。

ところで、ペルシャ人であったパルテイアの王は、西のローマ帝国からの圧カと東のバクトリャ王国のカに挟まれて、その勢力範囲は段々と狭められて、やがてイラン高原に、その勢カ範囲を限定されることとなった。しかし、このことが却ってペルシャ人であることヘの自覚をたかめ、民族意識を強めることとなった。このペルシャ人はゾロアスタ教を信じていたが、やがて第3世紀になると自力を回復して、地中海沿岸から東はインドに及ぶ広大な版囲をもつ王朝を建設した、これがサーサーン王朝ペルシャであり、アケメネス王朝ペルシャの復活であつた。しかし、この王朝も第7世紀〈651〉には、ついにアラブ軍の為にほろぼされるのである。

ところが、丁度、此のころアラビア半島の西方、紅海の沿岸に近いメッカに新しい一つの思想が現れた。マホメツトを始祖とするイスラムの思想である。このアラビアの預言者マホメット〈A.D. 570-632?〉はメツカに生まれ、コライシュ部族の中で人となったが、早く孤児として苦難の生活をおくっていた。ところが、富裕な未亡人ハディーシヤと結婚し、その後15年間、安定した生活を送っていたが、A.D.610、年突然、神の啓示をうけ、預言者としての自覚のもとに宗教的政治家としての生活にはいったのである。

しかし、メッカの大商人達は、このマホメットの活動を快く受け入れていたわけでなく、種々と迫害をくわえた。A.D. 622この迫害に堪え切れなく、メディナに移ることになったのである。その後、10年苦闘の後メッカの無血征服に成功し、メッカはそれ以後イスラムの聖地となったのである。その後8世紀にはイスラム帝国となり、11世紀にはセルジューク帝国と漸次拡大しイスラムの勢力は、その範囲をひろげていったのである。そして、その支配地は東は現在のアフガニスタン、パキスタンの北東部にまで及び、イランやソ連のトウルクメン、トルコ、サウジアラビヤ、更にはアフリカ大陸の北部一帯にまで及んだのである。

ところで、このように拡大していったイスラムの世界は、内にはユダヤ教、ゾロアスタ教、キリスト教等の諸宗教を包括していたために、その文化は多様化していた。しかし、この文化の多様性は「コーラン」の教えとアラビヤ語の絶対支配によって統一をたもっていたのである。もともと、一神教であったイスラム教は根本的には啓示宗教としてキリスト教やユダヤ教と異なることはないが、唯一の違いはアラビヤ語の啓示「コーラン」を神から授けられたということである。しかも、このコーランこそが法学神学哲学などのイスラム思想の根源である。しかし、この「コーラン」で一番大事なことは「神は唯一であり、マホメットは神の使徒である」という信仰告白と、異教徒との戦いであり、一命を犠牲にしたものは天国に生まれると約束されていることである。このような中央アジアを中心として砂漠地帯に起った感情的情熱的な一神教的諸宗教は、これらの地域をでて東方諸国へは容易に広がらなかった。ゾロアスタ教はペルシャの国教となった後、中央アジアの絹の道を通って中国に入ってネ天教と、キリスト教は景教と、マニ教は摩尼教とそれぞれ呼ばれて伝わったが、中国では余り大きな力とはならなかった。それは中国には道教や儒教という固有の教えがあり、砂漠地帯と異なった風土があったからであろう。それにたいして、インドに起った仏教は、一旦はインドから西方に出ながら、そのまま西方へはひろがらず、中国へと伝播してゆくのである。ここに、思想宗教と民族性風土性の問題を考えざるをえない理由がある。次に、このような点からモンスーン的風土について考えよう。

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全体的にインド、中国、日本をモンスーン地帯とよぶことについては問題もあり、そのように規定することは無理であろう。具体的には広大なインドや中国などは風土的にも民族的にも簡単に一義的にこれをきめることはできない。そこで、インドについては、後に検討するとして、ここでは、まず中国についてその文化の展開の跡を辿ってみよう。

さて、中国文化の源流は古く黄河流域に発生した黄河文明である。それは、大体B.C. 3000年頃であったと思われる。古く殷や周の古代王朝のあった華北の平原は、日本と違い、それをモンスーン的風土と広くよんでも、雨は少ないし、土地は乾燥しているし、一目千里、何も目を遮ぎるもののない平原であった。しかも、空は青く澄み通りひろがっていた。人々は、この澄みきった青空を天と呼んで、そこに死者の霊魂が住んでいると考えたのである。この死者の世界にも、夜空にきらめく数多くの星が北極星を中心として、規則正しく運行しているように天にも一つの統一した世界があり、天界では天の上帝を中心として秩序ある祖先達の生活が営まれていると考えていたのである。このように、地上と天上との二世界を人間の死をさかいにして考えていたのが中国人であった。

中国人は人間には魂と魄とがあり、魂が人間の肉体を離れるとき、それが人間の死であると考ええたのである。そして、さらにその人の家の屋根にのぼって、死んだ人の名を呼んだのである。それは、その人の死を確認するためであった。このような風習は日本でも古くおこなわれたが、これは中国からの影響であろう。このようにして、魂が人間の肉体を離れたことを確認して後、葬儀を行うのである。即ち、肉体を土に埋める土葬である。この土葬によって、肉体に残っていた魄は土の神となるのである。日本の産土神である。したがって、この埋葬の儀式は、実は再生の儀式として重要な儀式であったわけである。

さて、このような考え方に立って祖先祭りが行なわれるのであるが、この祭りで最初に行なわれるのが招魂である。日本で神道で儀式の初めに行われる“降神”がこれである。しかも、この場合、天上の祖先は高い樹木の上に降りてくるというので、神木が神社の主体となるのである。中国ではこれを木主という。これが、やがて木牌となり、位牌となって禅宗の渡来とともに我が国に伝わったのである。ここにみられるように、中国思想は天と地という二元を根本とするものである。しかも、この天上界と地上界との仲保者が天子であると考えられた。即ち、天子は天の命を地上界に伝え、地上の意向を天に伝える仲立ちをするものである。わが国において天照大神が女神であることは、天上の死者と地上の人間との仲保者である巫女であったとも考えられる。このように、天子を中心として天界と地界とが統一されることが、世界の秩序の根本構造である。この点で中国文化の根本は秩序の道徳と天地間の正しい運用を行う政治である。したがって、ここでの道徳は政治道徳であり、儒教の道徳主義は此処にその基盤をもつのである。

以上のような事情のなかで、中国の祖先崇拝による招魂の祭りは、天地間の正しい秩序とその運用という政治的なものになっていったのである。ここにみられるように、中国人は死者を祀るが死そのものへの反省は、さのみ深いものではなかったと思われるのである。これは、ギリシャの場合と似ているが、それは風土的影響によるとも思われる。この死そのものへの関心が薄かったというのは、孔子の主張にみられる。即ち、孔子は“知”とはと聞かれて「民の義を努め、鬼神を敬して遠ざかる。知というべし。」と答えている。即ち、民を治め、統治することと、神を祀ることとは別のことであるとするのである。いわゆる祭政一致ではなく、宗教と政治との分化がみられるのである。孔子は神にたいしては敬して遠ざかるベきであるという。その理由に「いまだ能く人に事うるあたわず。いずくんぞ能く鬼に事えん。」という。即ち、現に今生きて此処にいる人にたいしてさえ、十分に仕えられないのに、どうして、ここにいない神につかえることが出来ようかというのである。そこで、死については「いまだ、生を知らず、いずくんぞ死を知らん」という。ここに、孔子の死についての考え方が示されている。それは経験主義の立場である。しかし、これは、単に孔子の立場というだけでなく、中国人の思想的立場というべきであろう。中国の文化は現実を重視し、しかも経験主義にたつものである。その点で、中国にはギリシャのような精緻な哲学はうまれなかった。中国にlogikと呼ばれるような論理学が成立せず、名家といわれるような詭弁講に終始したのは、これを示している。また、死者を祀るのに生前と同じにすベきであるとするのも、死者に超人性を認めない現実主義の立場をしめしている。このように、中国の文化は合理的知性的ではなく、それは、まさしく経験主義的立場にたつものであった。

ところで、このような儒教にたいして、民族的なところに根をもつ道教の世界は、これとは趣をことにしていた。例えば儒教では天子の媒介による天地間の統一と秩序という現実政治の世界を問題としていたのであり、それはあくまでも人間の人為的世界に関する有為の世界であった。ところが、この人為的世界に秩序と統一を求めようとする時、それを根拠づける根底的な論理がなければならないはずである。しかし、すでに述べたように、それを論理的知性的に尋ねることは、現実的経験を重んずる中国人にとっては無理なことであった。ここに説かれたのが、地上的なものを超えながら、しかもそれを支えている無為自然という思想であった。このような人為的世界を底に超えて無為自然の立場にたったのが道教である。老子や荘子によって説かれたのが老荘の教えである。恐らく、この教えは、儒教の人為的有為的世界への反省からとかれたものであろう。

しかし、このような有為と無為との二つの教えは、天上の無為自然の道と地上の有為人為の道との二つの思想を形成することになった。儒教の徳治と韓非子の法治という二つの思想もこのような流れと関係するかも知れない。ところで、このような考え方は、やがて日本文化として展開するのである。

以上、概括的に中国文化の基盤となっている中国人の思想の流れについて考えてきたが、天地陰陽という二元対立の思想の中へ、砂漠風土に生まれた一元論的な闘争的一神教であるマホメットのイスラム教が、簡単に受け入れられないのは当然である。ところが、インドにおこりながら、インドではインド・アーリヤのバラモン教の思想と対立拮抗しながら、ついにはバラモン教に同化して、その姿を消していった仏教ではあったが、現実生活への厳しい批判を通じて、無為自然による幸福な人生を生きる道を説いた仏教は、中国に伝わって儒教や道教と関係しながら、中国佛教として展開していったが、1500年の正像期をすぎて、やがて儒教や道教に同化していった。また、この仏教は日本に伝来して、日本の国生みの思想と結びついて祖先崇拝的な仏教になった。

このように、仏教はインドではヒンズー化し、中国では儒教化し政治的なものと結びつき、さらに日本では祖先崇拝しながら展開してきたのである。このように、仏教思想が、それぞれの民族の中で、その風土性に同化しながら、しかも消滅することなく、今日まで長い歴史を生き続けることができたのは、どうしてであろうか。この理由を明らかにすることによって、今日、複雑な状況を呈している社会に対する仏教者として、如何に発言すべきかを尋ねようと思うのである。第二章 佛教思想の体系と展相

前章ではアジアとヨーロッパの文化について、その歴史牲と風土性という面から、それぞれの文化の始源と展開の模様を考えてきたが、この二つの異なった領域の文化は、さらに具体的には、モンスーン的風土に育った感性的情緒的文化、砂漠的風土に育った感情的情熱的文化、牧場的風土に育った理性的合理的文化の三つの文化の流れとなる。このような観点にたって、それぞれの文化の様相をあきらかにしてきた。ところが、今日はこのような始源を異にする文化も、時代の進展の中で相互に交流し影響しあって、其の性格は曖昧になりつつある。しかし、それぞれの持つ文化の風土性は、このような状況の中でも、根本的には変わらない。今日みられる世界の混乱は、文化のもつ民族性風土性の違いから起る文化摩擦によるといってよいであろう。といって、このような混乱をなくするために、いずれかが他のいずれかを抑圧し統一することは不可能である。核の開発は大規模の戦争を不可能にしたが、だからといって、直ちに平和共存の世界の実現が可能かといえば、それは不可能であり、反対に局地的な紛争を起し、人々の大切な生命を脅かしている。いま、我々はこのような対立を克服して、相互に幸せな道を歩くことのできるよう努力しなければならない。

ところで、これを可能にする道は、相互に相違した文化を正しく理解し合い、その理解の上に立って、お互いの交流を深めることである。しかも、そのためには正しく現実を把握し、厳しい批判に立ち、文化の差異をこえて共に共感し合えるような思想を求め、それをお互いが共有することが必要である。ところで、そのような思想は単に感覚的行為的なもの、また単に理性的理論的なものであってはならない。それは、人間を単に個としての人格の完成者に育てるのでなく、宇宙大の人格の完成者に育てるような働きをもつ思想でなければならない。即ち、一切を自己の内容とする全体的包括者としての本当の人間にするような、知性的で、しかも豊かな感性を育てる行為的実践智となって働く思想でなければならない。今このような観点から佛教思想の体系とその展相を明らかにし、その果たす役割についてみようと思うのである。

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佛陀釈尊〈Buddha !qkyamuni〉によって説かれた教は、当初、中国に伝わって釈尊の教えとして「釈教」と呼ばれた。まさしく釈尊の教えである。しかし、やがてそれは佛陀の教えとして佛教といわれるようになるが、そこには単に佛陀の教えという意味だけでなく、この教えはそれを学び実行するならば、その人もまた佛陀と同じ佛となることのできる教え、即ち成佛の教えを意味していたのである。このように、佛教は佛陀釈尊の教えであると同時に成佛の教えであるが、その根本は釈尊の悟りから始まることを忘れてはならない。といって、それは悟りを開いた釈尊の教えであり、悟りそのものでないことに注意しなければならない。というのは、悟りそのものはあくまで釈尊の内的体験であり、言語表現を超えたものであるからである。ところが、教えとして説かれたものは、その言語表現を超えたものを言語を媒介として人々に表示したものである。しかし、我々はこの言語に示された言教を通してのみ釈尊の体験に触れることがてきるのである。その点で佛教は単なる思想ではなく、悟るための修行への手引であるというベきであろう。

『大乗起信論』に「因言遣言」という語がある。それは物事は言語によって表現されて、初めて其れが何であるかが明らかになるが、其の表現としての言語に執われると、其の物の本当の姿がみえなくなる。そこでものの真実を把握するためには、表現することによって表現そのものを超えなければならないというのである。その点で佛陀の教説としての佛教は単なる思想でないことは明らかである。しかも、釈尊の問題は現実の誰も逃れることのできない無常苦であった。それは、単に考えを変えることによって解決出来る問題ではない。しかし、老病死で示される無常を苦しむことは、人間のある種の思いであろう。ただ、それは単なる観念的精神的なものではなく、身体的なものに根差した思いである。いま、このような立場に立つ佛教の思想を釈尊の思いの表現として理解し、それがどのようなものであったかを明らかにしよう。

さて、釈尊が悟られて後、始めてそれを教説として説かれたのは鹿野苑〈M3gadqva〉であり、相手は甞て共に苦行に励んだ五人の友であった。釈尊は現に苦行に固執している友であることを考慮して、先ず悟りへの道は非苦非楽の中道であることを説かれたといわれる。次いで、その中道について具体的にこれを説かれた。即ち、八正道〈八聖道〉の教えである。正道が聖道ともいわれるのは、其れが聖への正しい道であるからである。しかも、この道は単に目的地に到達するための手段ではなく、目的そのものが常に実現に向かってはたらいている道なのである。八正道はそのまま八聖道、八聖道がそのまま八正道なのである。さて、それでは八正道とは何かというに、それは正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八である。

先ず正見〈sammqdiwwhi〉について、経〈『雑阿含』81〉は「まさに、まさしく眼の無常を観察すべし、かくの如く観察するをば正見と名づく、正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に、喜を離れ、貪を離る。喜貪を離るが故に、われは心が正しく解脱すと説く」といっている。ここに眼とは眼耳鼻舌身意の六根をさすから、それは人間の心と身体として働いている自分をいうのである。そこでこのように無常を生きている自分であると観ずるならば、自分自らの生存を嫌悪して、喜びや貪りの思いはおこることがなく、世間的な生存から解脱するので、これを正見というと説くのである。この説明によれば正見とは世間的日常的生存の否定であり、しかも、それは観察といっても観念的ではなく、まさに行為的認識としての智慧に生きることである。道とはこれをしめすものである。このように正見は完成さるべき悟りの智慧であるとともに、その出発点としての日常的自然的な物の否定としての認識知である。

ところで、このような正見は正思惟〈sammqsankappa〉正語〈sammqvqcq〉正業〈sammqkammanta〉正命〈samm'qj]va〉正精進〈sammqvqyqma〉正念〈sammqsati〉正定〈sammqsamqdhi〉の七種の正道によって、自分自身に具現すると説いている。即ち、正見にみちびかれて正思惟・正語・正業という実践があるのである。まず、正思惟とは「出家を思惟すること」といわれる。喜貪に根差す五欲の邪念を否定することである。日常的な財欲・色欲・食欲・名誉欲・睡眠欲を心において否定することである。それは具体的には無害心と無恚心を思惟することであるといわれている。害心とは他の生類を憐れまず自己本意に振舞う独善心をいう。恚心とはそこにおこる気侭な瞋恚心である。この日常的本能的なものの否定の中で価値転換が行われる。しかし思惟である限り、それは内面的である。正語・正業は其の具体化である。

まず、正語とは妄語綺語悪口両舌の四を離れた正しい言語活動である。正業とは殺生偸盗邪婬を離れた正しい行動である。このようにして、この身口意の三業を正しくすることによって、生活全体の価値転換を遂行するのである。このような自然的日常本能的な生活の転換は、知識の世界を超えた身体的な智慧によらねばならない。この人間生存の全存在的転換を果たすものこそ、無明の克服によって得られた智慧の働きによるのである。しかし、これの完成は、まず徹底した自己批判から始められねばならない。これが正命である。その点、この正命は現にある生活ではなく、まさにあるべき生活として求められてあるものである。しかも、これを実現する道は「常に行じて退せず」とい謂われる正精進である。しかし、このような努力は主としてイデア的なものであり、それは過去の集約として与えられてある身体的なものを否定する努力である。経典が「身体において、世間における貪欲悲哀を克服して、熱心に醒めたる心で専念専注して身観に住することである」と正念について述べるのはこれをしめしている。ところで、現にあるものとしてではなく、あるべきものとして求められる正命が、身体的なものの克服であるとしても、それは単なる禁欲や自己犠牲ではなく、現実苦を徹底して、その徹底において苦を諦観することでなければならない。

以上述べてきたように正見より正念までは、正道とはいっても、それは諦観として多分にイデア的であり、観念的でさえある。この正道を聖道として、真に正道たらしめねばならない。此処に、八正道の最後に正定がおかれるのである。いま、正定とは「心不乱に住し、堅固摂持し三昧一心に寂止す」といわれる。即ち、まさしく心一境相を観ずる三昧の実践である。其は具体的には、身はこれ無常なり、苦なり、空なり、無我なり等と、身、受、心、法のそれぞれに無常、苦、空、無我を観じ、一切の存在の真実に達するのである。しかも、それは『小空経』『大空経』などが説くように「空」を行ずることである。空を行ずるというのは、単に空を観念することではない。何らの想も為作もない空心における心境一致の実践行の世界である。般若波羅蜜の世界である。これこそ八正道の初めにあげられた正見の実現である。このように、八正道の説法は釈尊が自らに悟った、その悟りとしての正見に立って、それへの実践法をとかれたものであるといえるであう。

此処にしめされる非苦非楽の中道としての八正道の説法は、無常苦の克服の道として繰返し繰返し説かれたであろう。しかし、このような般若波羅蜜の具体的な実践法としての八正道による人間苦の克服には、苦への徹底した諦観があった。其は、釈尊が出家以前に苦しまれた苦、出家以後に苦を克服しようとしての修行中に苦しまれた苦、このような一切の苦にたいする諦観である。いま、このような諦観を説かれたものが、悟りの内観として説かれる種々の縁起観である。

次に、暫くこの緑起観について考えながら、釈尊の人間苦の何であったかをたずねてみよう。

U

人間にとって、この人生は苦なのか楽なのか。このような人生にたいする価値批判は、人によってそれぞれ異るといってよいであろう。しかし、極端な虚無論者や不可知論者を除くならば、類型的には理想主義・現実主義。宿命論・自由論。快楽説・厭世説。などとそれぞれを一対づつにして、哲学的、倫理的、宗教的と区別することが出来るであろう。いまこの中の宗教的立場に立って人生を考える時、現実的日常的事実としての人生は、苦楽交錯の世界であるから、その中にあって苦を克服して究極的な楽を生きることを求めるか、もともと人生は苦であると厭世説に立って、苦の中にありながら、でも幸福であると人生を生きる道を願うかである。前者の場合を単に快楽説とはよべないとしても、神などによって、祈りへの報いとして与えられる楽しみを期待して、神等を信ずるとすれば、或る種の快楽説といえるかもしれない。しかし、この場合でも人生を単に肯定するものでないことはいうまでもない。ところが、後者の場合は徹底して人生を苦と否定するもので厭世説というべできあろう。しかし、この場合、その否定を単なる否定に終わらせるのでなく、その絶対否定によって死復活する道を説くならば、それは単なる厭世説ではないであろう。いま、このような宗教としてキリスト教と佛教を挙げることが出来るであろう。ただ、この場合、前者はその絶対否定を絶対者である神によってなされるものとし、後者では自己自らによる、日常的世俗的自己の絶対否定とするという点で相違するということができるであろう。

かつて、アルべルト・シュヴァイツェル〈Albert Schweizer〉は『キリスト教と世界宗教』〈Das Christentum und die Welt-Religion〉の中で佛教に関して、次のようにいっている。「佛教は世界と人生ついての徹底した思惟によって、打ち立てられた宗教である。そのために、佛教は全く論理的に示すことのできる世界観と人生観とを、その根底としているのである。しかも、その世界観、人生観は、日常的な世界や人生の絶対的な否認をしめしている」といっているが、これは、まさしく上に述べた佛教の立場を示している。ことに、我々の注意すべきことは、ここにいわれる「徹底した思惟」〈Konsequente Denken〉という言葉である。といって、彼がこの言葉で何を語ろうとしているかという点については、直接に彼の叙述に確かめることはできないが、次の叙述はその意味を知る手掛かりになるであろう。即ち、かれは前引書の中で、釈尊の悟りに関して「釈尊は、妻を捨て、子を捨て、禁欲と苦行によって、解脱は達せられるものであるとした従来のインド的な修行によっては、自分の出家の目的の達せられないことを知って、禁欲や自己犠牲ではなくして、認識によって、解脱が得達できることを示したのであった」といっているのである。このシュヴァイツェルの考え方は、かつて和辻哲郎博士がいわれた「真実の認識による成道」という立場と同じであろう。それでは、「徹底的思惟」とか「真実の認識による成道」といわれることは、具体的には何をいうのであろうか。これが、縁起の自覚といわれることである。現実存在の真実相は縁起である。これが釈尊の自覚であった。「緑起をみるものは法をみる。法をみるものは佛をみる」というのはこのことを示すものである。

インドの哲学者蓮華戒〈Kamalas]ra〉は「佛教の哲学の中には、数多くの宝石がある。なかでも縁起という思想は最も重要な宝石である。」といっている。事実、佛教教学の諸体系は凡てこの縁起思想を基本的立場としているのである。例えば、それらは業感縁起・頼耶縁起・真如縁起・如来蔵縁起・法界縁起・六大縁起等とよばれてきたのである。この点、縁起という思想は佛教という教えの基底をなすものである。しかも、縁起という現実存在の把握は、単に佛教という特殊な教えによるものではなく、世界の真実の存在の在り方の正しい把握であるというのが、釈尊の自信であった。原始経典に説かれる「緑起の法は、我が作るところでも、また余人の作るところでもない。それは、如来が出世する場合にも、出世しない場合にも、常に常住である。如来は唯だこの常住の法を自覚して、正覚を成ぜられたばかりである。」という原始経典に見られる常套語はこれを物語るものである。釈尊は唯だこの事実を自覚し自証されたのである。しかし、それではこの縁起の自覚は如何にして、釈尊に現実苦の克服をもたらすことができたのであろうか。それは、後に縁起を説明して、縁起とは、存在が相互依存の関係の中にあり、本来的には、それぞれ無自性空でありながら、相互関係の中で有自性的に存在していることであるというような概念的理論的説明的なものではなかったであろう。それは、より具体的な現実理解であったにちがいない。それが、後に十二縁起と体系化されたのであり、そこには五支縁起や九支縁起等とよばれる種々の縁起観が内包されているのである。次に、十二縁起観を中心において、釈尊の苦観を考えよう。

伝説によれば、釈尊は青年時代の多感的性格の中で感ぜられた老病死の無常苦の解決のために出家し、勤苦六年の後、三十五才にして悟りを開かれたといわれている。しかもその最後の観法こそ、この十二縁起観であったといわれている。その十二とは、無明から始まり老死におわる十二の支分である。これを悟りにむかう観法としてみれば、先ず問題である老死に代表される無常に悩む苦の成立条件を求め尋ねて、無明こそその最本原因であるとの観法である。即ち、まず我々が何故に無常の現実に苦悩するのかと問い、それは無常に苦を感ぜざるを得ないような生活を送っているからであるという。しかし、其の無常を苦しむのは、物にとらわれる執着心があるからである。しかも、その執着をおこさせるものは人間生存の底にあり、それこそが人間生存を支えているというベき本能的愛欲である。このように観じてくれば、明らかに人間の生存苦は本能的欲心にあるのであるから、苦を逃れる方法は、この本能的欲心を断尽することである。このような観点から苦からの解脱を渇愛煩悩の断尽にありと苦行精進した人々があった。しかし、これは生存の否定であり、輪廻からの解脱であっても人間的には生存の死滅に他ならない。これが灰身滅智の無余涅槃とよばれるものである。

このような虚無思想は、生存に行きつまり絶望の断崖に立った人間にとって、一種の救いであるかも知れない。価値観の大変動の時代に、このような虚無思想が流行するのはこれを物語っている。しかし、それは本当の人間生存の救いにはならない。これを克服するものは、現実の正しい認識による人間の叡智の実践である。釈尊はこの本能的欲心が、いかにして人間生存を脅かすのかと、さらに瞑想を深められるのであった。これが、受、触、六処、名色、識、行、無明の七支緑起である。

ここに示された七支は、本能的欲心の生起する条件と、それによる無常苦の原因を明らかにしたものである。即ち、本能的な愛欲の心は我々の日常生活における具体的な苦楽捨の三種の感覚受容によって起るのである。またそのような感覚受容の生起するのは対象と感覚機関との接触にによるのであり、それは心身の統一体である人間存在の働きに根底をおいているのである。しかも、その源は意識によると、識・名色・六処・触・受の五支をたてるのである。この場合、その源の意識というのは、単に意識作用というのではなくして、人間にとって日常生活の中で常に行われている分別、即ち、見るものと見られるもの、佛教でいう能と所とを分けなければ成立しない意識の分別作用をいうのである。人間の迷いとは、この分別をいうのである。例えば、迷うとは東を西と間違え、西を東と間違えるなどと方角を間違えて行動することであろう。しかし、その迷いの根本は本来確定していないで、座標の設定の仕方で変わる方角を固定することであることを知らねばならない。即ち、迷いの根本は東に対して西、西に対する東、北に対して南、南に対する北などと、対立を分別するところにあるのである。しかし、これが意識の本来的な在り方である。そこで、本能的愛欲心の起る源をこの意識にもとめたのである。ところで、このような迷いの根源としての意識も、ただ、それが分別しているだけであれば問題はないが、それが本能的な愛欲として具体的に行為の世界に働く時、苦がおこるのである。それを人間の意志の作用によるとして、これを行といったのである。しかも、其の意志の働きに根源的な、過ちを犯さしめ、人間を苦悩の世界に苦しめ悶えしめるのは、人間存在の真の姿への自覚がないからであるとして無明をとくのである。このようにして、無常苦の根源は人間存在にたいする無知無自覚にあると説くのが十二緑起である。その点で、無明によって行あり、行によって識あり、乃至、生によって老死ありなどと示されるが、其は決して時間的でなく、今此処にある現実を分析的に示したものというベきである。無明を根底とする人間生存が苦そのものであることを明らかにし、しかも、それは無常の事実を体認しえないで、無常の現実に常住を執着するからであると、人間生存の苦の現実を構造的に明らかにしたものである。そこで、経典はこれを構造的にしめして「此有則彼有、此生則彼生」「此無則彼無、此滅則彼滅」と説き、このように構造的に示された緑起について、前に示したように

此縁生法、若佛出世、若未出世、此法常住、法住法界、

彼如来自所覚知、成等正覚、為人演説開示顕発          (雑阿、12-14

というのである。

さて、人間生存が苦以外の何物でもないという一切皆苦の宣言の源は無明傾悩をいきる人間にとってはどうにもならない現実であるという釈尊の悟りにある。即ち、無常の事実に徹することができず、常住に執着する人間の無知と本能的愛欲こそ生存苦の根源なのである。釈尊の無常の自覚は常住への執着を断除し無我を悟らしめたのであった。無我の自覚とは存在の刹那生滅性の自覚と存在の縁生性の自覚である。しかし、若し存在が縁生ならば、個々の存在はその存在根拠を自己自身に求めることはできないであろう。これが後に個々の存在は本来無自性空であるといわれるのである。存在は独自性をもって存在するのではなく、関係性においてそれぞれの特性を示すのである。例えば、甲は乙丙に対して甲であり、より厳密には非甲にたいして甲なのである。また、非甲は甲にたいして非甲なのである。一般的には此は彼に対し、彼は此に対するのである。緑起の原語prat]tyasa/utpqdaprti_iti_ya_sam_utpqd_aと分解され、それは〈相互に関係し合いながら共に生起している状態〉と理解されるのである。それぞれの存在は独自に存在性を持つものでなく、関係することにおいて、それぞれが自らの存在意味をもつのであるというのである。このような立場は理論的物理的でも形而上学的でもない、それは正しく実践的現実的である。その点で無我とか縁起とかということは、たんなる思想ではなく、釈尊の自覚内容である。しかし、この無我の自覚は釈尊の全存在を揺るがし、絶対の苦においこんだのである。次に、この点について明らかにしよう。

V

無常苦に悩み修行の後、一切法無我と悟りを開かれたのが釈尊であった。ここに無我とは常一主宰の我(qtman)の存在しないことをいうとして、我の存在の否定と考えられてきたが、釈尊の持言を多く含むと考えられる古聖典には「自己の利益を辨えよ」〈vijqney ya sakam atta/.)〈Theragqta, 587〉、「賢者は自己の利をみて正しく法を思慮せよ」(pazfito paso, sampassa/ attha/ attano, yoniso vicine dhamma/.)〈S.N. I. p.34〉などと説かれ、必ずしもqtmanの存在の否定のみを意味するものでない。経典には「神並びに世人は非我なるものを我と思いなし、名称と形態とに執着している」〈S.N.〉ととき、自己の身体、家族、財産、地位など自分にとって大切なものを我とみなしてとらわれていると、この様なとらわれの否定を無我といったことを述ベている。このようにanqtmannirqtmanは単なる自己の存在の否定ではないとすれば、それは釈尊にとってどのような自覚であったのだろうか。これについて次の経典は注意してみるべきであろう。それは『雑阿合経』の「尊重」S.N. 6.2gqrabo(南伝大. 12. p.234-)である。

≪是の如く我聞けり。一時世尊ウルベーラの林、ネーランジャナ河の辺り、アジャパ一ラ・ニグロドハの樹の下に住したまいき、正に正覚を成じたまいし時なり。

その時、世尊は独坐静観して、かくの如く考え給いぬ。尊敬するものなく〈agqrava〉恭敬するものなくして〈appatissa〉住すること〈viharati〉は、実に苦しいことである〈dukkham kho〉。我はいかなる沙門婆羅門を敬い〈sakkatvq〉尊び〈garukatvq〉頼りにして〈upanissqya〉住すベき〈vihareyya〉であろうか。と。

時に、世尊は次の如く考えたもうた。未だ完成されない戒蘊の完成のためには、他の沙門、婆羅門を尊び敬い頼りにして住すベし。されど、我は天界魔界梵天界を含む全世界において、沙門婆羅門人天を含む衆の中において、我よりもよく戒を完成した他の沙門婆羅門の敬い尊び頼りにして住すべきものを見ず。

〔次下に定・慧・解脱・解脱知見の四種について同じように述ベる〕、我は、わが悟りし法、この法をこそ敬い尊び頼りにして住すべきである。》等と述べているのである

ここに説かれるように、悟りを開き正覚を成ぜられた釈尊が、自分は既に世界の人々の中で最高の悟りを開いたので、いまはどのようなものも頼りにする必要はなくなった。そして無常苦を克服し苦は無くなった筈なのに、尊敬し頼りにするものなくして、今此処にこうして生きていることは、実に苦しいといっていられるのである。無我が前に述べたように、従来インドで説かれていたqtmanの単なる否定でなく、我でないものを我であるが如く執着することへの否定を意昧するとすれば、その執着心を断尽した釈尊が何故に苦なりと言われるのであろうか。このように考える時、この実に苦しいとの言葉は、尊敬し頼りにするものの無を言うのであるから、無我とは最後の拠り所の無を意味するというべきである。絶対に間違うことのない頼りになるものの無が無我の意味である。悟った釈尊の何も頼るものがないとの無我の自覚は、釈尊を絶望の淵に追い詰めたのである。頼る者無くして一時も生きられない人生に、自己も自己を取り巻く一切も頼る当てにならないと自覚した釈尊は生きる術をなくされたのである。このまま灰身滅智の無余涅槃へと考えられたのも無理のないことであった。

しかし、やがて釈尊は菩堤樹の下の悟りの座を立つて伝道の旅に出られ、それ以後一生を弟子達と共に自覚された法に生きられたのである。「我が悟りし法、この法を敬い尊び頼りにして住すべきである」との宣言は、これを物語るものであろう。即ち、無我と悟って無我の自覚に苦しまれた釈尊が、我が悟りし法に生きようといわれるのである。しかも、これこそが「法としてしかるべきこと」〈dhammatq〉「自己の利を願い〈atthakqma〉偉大なることを望ものにとって正しいことである」と経典はのべている。それでは、一体正法を敬い尊び頼りにして生きることが如法であるとは、具体的に何をいうのであろうか、この場合、正法が縁起の法を意味することはいうまでもないであろう。とすれば、正法によって生きるとは縁起を生きることであり、今日的な言い方をすれば「一切のもののカによって生かされて生きている事実を事実のままに生きる」ことである。後世、一切の存在は与カ不障の縁によって生じてあるといわれるのは、これを意味しているのである。釈尊は自ら悟った法を相手にむかって説くこと、即ち説法に生きられたのである。四諦の説法は、自ら苦しまれた苦悩を語りながら一切皆苦こそ諦理諦実であると説き、そのよってきたる原因が煩悩に障えられた無知にあることを明らかにし、しかも、その無知無明こそ人間の本能的愛欲に支配されるものであるから、ただの思想や観念的覚悟では転換のはかれるものてはないと、日々の身体的努力を八正道として説かれたのであった。これこそ構造的に説かれた縁起の実践といえるであろう。孤立しては生きられない人生を、他との共存の中に生きられたのである。

さて、以上に明らかにしてきたように、佛教はこの釈尊の実践を組織的に体系化して、その教学を形成した教えである。即ち、迷苦の生存の構造を十二縁起に求め、惑・業・苦の三道として、苦の世界を現起せしめるものを、人間の日常の行為の煩悩による汚染として、断煩悩、灰身滅智の無余涅槃を目指し、業感縁起をとく阿毘達摩教学。特に迷苦の根源を意識的分別にあるとして、迷界の顕現の根拠としての識生起の構造を明らかにして、転識得智をめざす頼耶縁起を説く瑜伽行唯識学派。有無の執着に明け暮れする世俗生活を絶対否定の諦観の中で空無我のままで縁起の有と達し、縁起の有のままに即空と無碍自在の生を日指す中観学派等と展開してゆくのである。

ところで、このような教学的学派佛教は教理的な固定化に進み、悟りヘの実践面に欠けるようなものとなっていった。ここに、今日では非佛教的とさえいわれている真如如来蔵縁起を説く人々があらわれ、やがてインドの風土とアーリヤ民族の文化に影響されつつ佛教は密教化していったのである。

 

第三章 佛教の風土的変容

       第1節 インドの場合

T

我々がある文化について語ろうとする時、其の文化のもつ風土性や民族性を無視することはできない。このことについては、既に初めに論じたところであるが、佛教の場合は、その教えが無常無我という真理観に立ち、他の思想宗教の場合のように天地開闢、宇宙創造の民族的神話をもたないから、どのような風土や民族のなかにも、それぞれの風土性民族性に相応しながら広がっていった。次に、これらについて考えよう。

前来、述べてきたように釈尊は、老病死に代表される無常苦に悩み、これを克服するために、当時インドで行われていた修定と苦行を実行したが、これらの教えが身心二元を立場とし、未来主義的な傾向にあったために、釈尊の求めた今此処でという現実での幸福をもたらすことができなかった。そこで、釈尊は尼連禅河で身を清め、スジャータという村娘の捧げる牛乳で煮た粥をめされて、心を新たにして後に菩提樹と呼ばれたヒッパラ樹の下に坐り、止観を修して無我とさとられたのである。しかし、この悟りは釈尊に本当の幸せをもたらしたのであろうか。これについては、異論もあろうが、先に述べたように南北両伝に伝えられているように、自分をとりまく一切が真に拠り所とならないばかりでなく、自分自らが頼りにならないとの自覚の中で、釈尊を絶望の深淵に追い込んでしまったのである。諸法無我の悟りそのものは、無常苦の克服であったであろうが、真の幸福をもたらすものではなく、却って絶望に陥れることとなったのである。しかし、一切法無我の自覚は、同時に一切法縁起の自覚であった。釈尊は生かされて生きている現実を生きるために伝道にでられたのである。

このような釈尊の説かれる教えには、当時インドの哲学者が、古来から伝承してきたような。世界の起源に関する開闢神話や人間の出現に関する神話は入り込む余地がなかった。『インドの歴史』の著者パニッカルは「覚者の伝道は宗教革命というよりは社会革命であった」といい、「教理はたんに解脱の目的を達するための新しい方便として、説かれたものである。教えのもたらした社会革命は、必然的な結果であって、師たちが心に抱いていた目的ではなかった。その結果、バラモンの反対の盛り上がりはおそかった。佛陀がこの教えを説きはじめた時、正統主義は、かくも平和的に説かれた理論が、強力な挑戦者になろうとは、予想だにすることはできなかった。――ただ、人生の道を説くだけの一人の人間の教えから、かれらにとっての危険があらわれようとは、考えてもいなかった。」といっている。このように人間の幸せに生きる道をおしえたのが釈尊であった。

ところが、時代社会に生きる教えは、それを信ずる人の民族性や風土性を無視しては存続しえない。佛教もインドでは民族の伝統とその風土性の中に生き、遂にその中に融合埋没していったのである。といっても、その基本的立場までなくしたのではない。古来からの伝承を受け継ぎ、それを生かしながら、自らの立場へと理解を進めていったのである。例えば、『長阿含経』30の「世記経」やその異訳、また『倶舎論』の「世間品」にはインド伝承の世界構成説である須弥山説や梵天の万物創造説が説かれている。しかし、ここではそれは人間が自ら造った行為の善悪による結果として、現出した世界であるというので、単なる継承ではない。地獄にしても天国にしても人間が自ら造作した世界として示されるのであり、佛教の立場にたった解釈となっているのである。また、ずっと後世に現れる思想ではあるが、佛について法報応の三身を説き、佛の永遠性と其の慈悲の活動をとくのは、インド思想の流れにあるアバターラ〈権化〉思想に基づくものであろう。

この様に佛教はインドという風土の中で展開していったのである。しかし、其が人間が幸せに生きていける道を教えるもので、宗教というより人生論であったといわれることは、佛教を見る時、特に注意すべき点と思われる。というのは、同じくインドに生まれ、風土を同じくしながら、このように一つは我を根本とし、他は無我に立つという、異なった二つの思想の流れがあるのは、その背後に民族性の問題が予想されるからである。

いま、ここでこの問題に深く立ちいることは避けたいが、古いベーダから梵書、ウパニシャットとインドのバラモン文化を展開したのは、B.C. 1200年頃ペルシャやインドを征服したアーリヤ民族であった。この民族は古くパミール高原より移住して、B.C. 1500-1200年頃小アジアで活動して、さらに南下してインド五河地方にいたり、この地方に高度な文化を築いていたスメール民族を滅ぼして、インドを支配したのである。このスメール民族については、種々論ずべきことはあるが、現在、中東地域といはれている、チグリス、ユーフラテスの両河に挟まれた中間州(メソポタミヤ)の「葦の原」(ケンギー)といわれた地域に栄えたバビロン文明の荷い手であったと考えられている民族である。このことはインダス河流域のモヘンジョダロやハラッパの発掘によって、ぼぼ確かであろう。実は釈尊はこのスメールに属すと思われるのである。もし、このように考えることが許されるならば、前に述べた我〈qtman〉を根本として哲学を説くものと、無我〈anqtman,nirqtman〉を説くものという二つの相反すると思われる思想が、同じ風土性にある土地に併存した理由が理解できるであろう。

また、このアーリヤ民族は分かれてヨーロッパに移動して、ヨーロッパ文明の源流をつくったであろうことは、そこに説かれる神々の名の一致によって知られる。例えば、インドのDyauspitarはギリシャのZeuspatater、ローマのJupiterであり、インドのDevaはローマのDeus、インドのVarnaはギリシャのUranos、インドのS[ryaはギリシャのHelios、インドのUsasはギリシャのHeos、ローマのAuroraである等である。

他方、スメール民族は主としてペルシャ湾より海にでてミクロネシヤ、メラネシヤ、オオストララシャ、インドネシヤ、ポリネシヤなどと呼ばれて東方に広がっていったと考えられている。このようにして、アジアとヨーロッパという二つの文化の流れが出来上がっていったと思われるのである。とすれば、佛教はその思想的立場からすれば、スメール文化の流れの中にあったというべきであろう。これが、佛教が後に西方ヨーロツパに伝わらず、アフガニスタンへ出ながら東方に伝わった理由のようにおもわれるのである。しかし、インドに展開した佛教は必ずしも、インド的なものを否定してはいないというべきであろう。即ち、佛教が説く無我思想は、単に我〈qtman〉を否定することではないからである。次に、このことを明らかにしつつ、佛教の無我思想についてあきらかにしよう。

アーリヤ民族のインド征服はB.C. 1200年頃であった。また、小アジア、バビロン地方に活躍したのもB.C. 1500-1200年頃であった。このアーリヤ民族の進出以前、どのような民族が、どのような文化をもって、この地方に存在したかについては、必ずしも明らかではなかった。ところが、19世紀から20世紀にかけて行われたカニンガム〔Cunningham〕やバネルジ〔Banerji〕によるインド五河地方のハラッパ〔Harappa〕の発掘、そこで発見された印章が、以前、西アジアのメソボタミヤのスメール〔Sumeru〕やエラム〔Elam〕の故地に発見された印章に似ていることから明らかになったスメール民族の文化とインダス文明との関係、さらに20世紀の初期のモヘンジョーダロ〔Mohenjo_daro〕の発掘によって、古いスメール民族の文化の存在が明らかになった。この広大な地域に独自の文化を展開していたスメール民族について、かつて高楠順次郎博士は、次のように語られた。

スメール族の根本発祥地は崑崙大高原である。スメール民族は崑崙山の北の麓の都城コタンを基地として四方に進出した。最も古く、また最も遠く進出したのはバビロンのスメール族であった〔B.C. 5000-4000〕。次にインドの西方の地域に進出したのがスメール系のバラタ族、スメール月氏系プル族である〔B.C. 3000〕。次にスメール系山の崑崙族、日氏系甘庶氏のクル族である釈迦族である〔B.C. 1000〕。この他に、広く中印・北印に遍在しているムンダ族がある。ところで、これらのスメール系民族は、さらに海の方に広がって、インドネシヤ族としてインド・マレー文明を形成した。このようにして、海の崑崙族として数々の文化を形成したものに、スメール系マレーネシヤ、メラネシヤ、オ一ストララシヤ、ミクロネシヤ、ポリネシヤなどのスメール語系民族がある。

と。このように、アーリヤ文明の以前に相当高度な文化を形成していたスメール民族の流れの中に日氏甘庶氏系の釈迦族があったのである。釈尊がこの系統の生まれであったことは、その世系を記したものによって知られる。『佛本行集経』「賢劫王種品」第三〈大.3.672-〉に釈尊の世系をしめして、次の如く誌している。*衆許〔Sammata〕大轉輪王−27世−大須弥〔Mahqsumeru〕小轉輪王−18世−真生王−31世−茅草王−甘庶王〔k2vqku〕−別成王−拘盧王−瞿拘盧王子−獅子頬王−−などと続き、この獅子頬王に四男一女の子供があり、その長男が浄飯王〔Suddhodana〕であり、ごの浄飯王の二人の子供の中の長男が悉達多太子〔Siddhqrtha〕である。この中、瞿拘盧王子の時から迦毘羅城に住したといわれている。いま、この世系をみる時、大須弥王や拘盧王の名に、スメール系クル族の流れにあった釈迦族の釈尊をしるのである。ここに、佛教が伝統的なバラモン教と基本的に、その立場を異にする理由があったと考えられるのである。

しかし、このような立場の相違はあったとして、それでは釈尊は全くインド・アーリヤ的なものを否定して、自らの教えを説いたのであろうか。この点については、古くは全く別であったとする考えもあった。しかし、前にも触れたように、必ずしもそうではなかったと、今日では考えられている。それでは、その模様はどうであるのか、この点に関して佛教の無我説について、其の意味を明らかにしょう。

U

さて、それでは、無我とは如何に理解されるべきであろうか。無我とは我〈qtman〉の無をいうと考えられてきた。原語のanqtmannir_qtmanqtmanの否定である。しかし、中国でこれが無我と訳されるだけでなく、非我とも訳されるように、それは「qtmanでないもの」という名詞であり、単にqtmanの存在の否定ではない。パーリ所伝の古いものには「わがもの」という執着が苦悩を引き起こすという立場からS.N. 469には「如来は貪欲を離れ、わがものという執着なく、希求することがない〈vitalabho amano nirqso.〉」といい、またS.N. 495には「真実の行者は“わがもの”という執着なくして行ず〈amamq caranti〉」と。また、S.N.220には「善き誓いをもっている人には“わがもの”という執着はない〈amamo ca suphato〉」といっている。このように否定さるべきものはmamaなのであり、qtmanではない。それは自己ではなく、自己の所有物についての執着の否定である。

また、無我について、S.N. 756には「神と並びに世人とは非我なるものを我と思い名称と形態とに執着している〈anattam attamqnam __ niviwwha/ nqmar[pasmin.〉」といい、自己の身体・家族・財産・地位など自分にとって大切だからと、自己そのものでないものを“わがもの”と、それに我執をもつ、そのような我はないというのが無我の意味である。このように、古い経典ではqtmanの無をいうのではない。いな、逆に“自己を求めよ”“自己を大切にせよ”等という経典にさへ出会うのである。

Vinqya, Mahqvagga 1.13》には、“アートマンをアートマンとみて、それを追及し真実の自己を見いだせ”“婦女を尋ね求めることより、自己を尋ね求めよ〈attqnam gaveseti.〉”等と説いている。

また、Theragqthq 587には「自己の利益を識別すべし」〈vijqneyya saka/ atta/.

S.N. I. p.14 _ tasmq hi pazfito paso, sampassa/ attha/ attano, yanso vicine dhamma/.〔この故に、賢老は自己の利をみて.正しく法を思慮せよ。〕Dhamma_pada 157 qtmanは愛しきもの〈piya〉である。

A.N. II p.21- されば、自己を愛し〈attakqma〉偉大なるものを希求する人は諸佛の教えに帰依し正法を尊重すべし。等と説かれていて、qtmanという言葉は必ずしも否定の対象となっていないのである。以上のように、古い経典ではqtmanattaと言われた我の否定ではなく、qtmanでないものをqtmanの如くみることを斥ける意味で無我を説き、qtmanqtmanとして正しくみ、“真実の自己をたずねよ”といっているのである。非我なるものを我とみてはならないというのである。この意味で、佛陀の教えは必ずしもインド的なものから全く別であったといってはならないであろう。ところが、やがて此の“アートマンでないもの”ということが“アートマンを有しない”という形容詞として用いられ、我の存在の否定の意味をもつようになり、これが.部派佛教の考え方となったのである。我を常一主宰と規定して、そのような何者かがあるとするのが、輪廻転生を説くバラモン教のおしえであり、其にたいしてそのような我はないというのが釈尊の教えであると考えたのである。このように、古い経典に用いられた「我」の理解がどうして解釈の違いをおこすことになつたのであろうか。恐らく、かの『ミリンダ王問経』に見られるような、ギリシャ的な思想の影響をうけて形成された説一切有部の教学の性格によるのであろう。

説一切有部とは、その原語のSarvqstivqdaの意味するように、全て〔sarva〕のものが存在する〔asti〕という学派である。その全てとは何をいうのかといえば、精神的肉体的諸存在を、其の存在を構成している要素に分析して、これを75法とし、それらが過去現在未来と三世にわたって連続持続し、因縁によって離合集散しながら、その時、その時の存在として現れるというのである。このような分析的な考えは多分にアーリヤ式ギリシャ的である。勿論、その要素としての法は固定的非変化的実体ではなく、刹那に生滅しながら連続してゆくものである。このように、存在を分析的に取扱うのは、そこに絶対的非変化の我〔qtman〕がないことを示すためであった。しかし、それが種々の誤解をうみ、実在論的にみられるようになっていったのである。例えば、有情構成の要素としてあげられる色受想行識の五悪についても、この学派では色〔r[pa〕を身体的要素、受想行識を精神的要素と分析的に人間存在をしめし、そこに我の無であることを示すのである。しかし.この五蘊にしても古くは四識住としてとかれ、人間が意識的存在としてここにある状態を示したものであった。即ち、意識は対象を感受し分別し、意志決定して、ここに在ることを示したのである。ところが、これを存在の構成要素として分析的に取扱かったのは、この学派の性格によるのであろう。

この様に、存在をその構成要素に分折して、そこに我の非存在を示そうとするのが、この学派の立場であるから、この場合、無我とは我の存在を否定することであり、後にこれが法有我無宗と批判され、佛教の教えの中で低い教学と位置づけられるのである。ところで、それならば今此処にこうして存在している自分はといえば、これを仮我というのである。しかし、単なる要素の結合である人間が、どうして人格的存在となりうるのか。この問題は、やがて、我〈qtman〉ではない補特伽羅〈pudgala〉という人格的統一原理を立て、後には付佛法の外道と批判されながら、輪廻転生する人格的主体を立てる犢子部の説があらわれたのも無理のないことである。しかし、PudgalaQtmanでないとしても、それを人格的統一原理として、その存在を認めるかぎり.やはりqtmanと変らないであろうとの批判は当然である。そこで、これを克服して真に無我の立場を貫こうとすれば、この様な分析的な立場を捨てるよりほかに方法はなかろう。ここに現れたのが、後に大乗中観学派といわれた諸法皆空、一切諸法無自性説であり、『般若経』に説かれる教えである。

しかし、何故、部派の佛教が法有我無説をとらねばならなかったのであろうか。これについては、必ずしも明確ではないが、インドに伝承されてきた業輪廻を無視することができなかったからであろう。それが、業感縁起といわれる教学の立場である。既に述べたように釈尊の教えは輪廻転生を説くインド一般の転変説や積集説を否定して現実中心の立場に立ったものである。しかし、このような釈尊の教えは、当時の人々に仲なか受け取れなかったであろう。そこで、因果論を重視する立場から三世因果を説いた。これが、インド的風土に影響されて輪廻論となり、輪廻の動力因である業の荷い手を立てるようになったと思われる。そこで、ここでは空を説きながら、それは分析的に空をとくことになり、縁起観に基ずく体空観にならなかったのである。

所謂、阿毘達磨〈abhidharma〉といわれるような分析的客体的な立場にたつ教学を釈尊の本心ではないとして、これを批判し全一的主体的立場にたって教学を主張したのが南インドに出た龍樹〔Nqgarjuna〕であった。かれは、このような阿毘達磨教学を世俗的であるとして、これらを俗諦と位置づけ、さらに戯論として斥け、縁起空の真諦に入るべきであると説いたのである。彼の基本的著作である『中論』に示される八不縁起とよばれるものは、これを雄弁に物語るものであろう。不生亦不滅.不常亦不断.anirodham anutpqdam anuccheddam a1a1vatam,不一亦不異.不来亦不出.anekqrtham anqnqrtham anqgamam anirgamam,能説是因縁.善滅諸戯論.ya4 prat]tya_samutpqda/ prapa`ca_upa1amam 1ivam,我稽首禮佛.諸説中第一.de1ayqmqsa sambuddhas ta/ vande vadatq/ vadam.

ここに示されているように、生成・常断・一異・来出などと、それぞれ相対立する事柄への執れを遊戯の論と斥けるのである。いわば、人間の分別的知性的な判断や推理を真実に迫らない傍らでの遊び〈Bei_spiel〉というのである。というのは、物事の真理は言語分別によって把握出来ないものであり、それは言語分別をこえて体認さるべきものであるからである。勿論、真理は言語によって語られなければ、人々の理解をうることはできないであろう。しかし、その言語にこだわれば、其の真意は納得できないであろう。真理は論理によって語られねばならないが、論理はまた論理によって超えられなければならないのである。空とはこのようにしてえられた体験である。したがって、空とは何もないということではない。凡て存在は相待的関係に於いて存在としての意味をもつというのである。阿毘達磨にいう任持自相軌生物解とは、存在の独立自存性をいうのではない。すべてが相待であり、縁起性であることをいうのである。その点で、空の自覚とは釈尊の無我の自覚であり、具体的には縁起の自覚として現実に生活化されるものである。龍樹はこのように空即縁起の事実を生きたのである。彼に『十住毘婆沙論』の著作があったとされるのはこれを物語るものであろう。

しかし、理論的な空の主張は他との共存や妥協を許せないことになり、彼を受け継いだ人々が極端な否定論者に傾むいてゆくことになったのである。それは従来のインド的思想との対決であった。しかし、前にも述べたように、このような対決の姿勢は、釈尊の中道の姿勢ではないとして、緑起の内観に徹してゆこうとした人々があらわれた。それが、無着〈Asanga〉世親〈Vasuvandhu〉などの瑜伽行唯識学派であった。瑜伽行〔Yogacqra〕によって一切法唯識と達し縁起の事実を体認しようというのである。即ち、、知性的分別の根源は人間がもともと意識的存在であるからであるとして、識に人間存在の根拠をもとめるのである。ヨーロッパの思想家たちが人間をhomo sapienceとして理性的人間とみ、亦考える葦などというのもこのような立場を物語るものであろう。しかし、意識は現象学派の人々がいうように見るものと見られるものとの関係の中に働くものであり、しかも、それは意識其自身の二分化である。意識のnoema面とnoesis面との関係において働くのが意識作用である。この意識の根本構造に縁起の相をみ、人間存在の在り方を確認したのである。このようにして、唯識無外境と達し、遂には織自身をも超え境識倶泯の立場に到達せしめんとしたのである。

さて、この識緑起の構造を明らかにするために、根本識として阿頼耶識〈qlayavij`qna_vij`apti〉を設定した。それは蔵識とよばれるように、あらゆる自己の認識の対象を表象する能力〈種子〉をもち、亦、認識した対象の表象を保持し〈受薫〉、しかもこのような能力の保持者として、これこそ「我」であると誤執されるもの〈我愛執〉であるといわれるのである。しかも、このように誤認するものを我執の意識として末那識〈mano_vij`qna〉とよび、独特の意識作用として設定するのである。さらに、眼耳鼻舌身などの五種の感覚的意識、それらと共に働き、また独自に働く第六番目の意識など、総計八種の識をたてて、人間の生存をこの様な識溝造として明らかにしてゆくのである。これが、頼耶緑起といわれるのである。そこで、このような識構造としてとらえられた現実の分別的執着を転じて、無分別の智慧の世界を生きる柑を智の構造として明らかにするため転識得智ということを説いている。即ち、妙観平等初地分得、大円成事唯佛果起、というのである。迷いの分別に執着している世界では、第六意識は差別にとらわれて真実を知りえないが、執着を対治した時、この意識は諸法を観ずるに無礙自在となり、大衆の中で巧みに法をとき、人々の疑惑を断ずる智と転ずるというのである。また、第七末那識は第八阿頼耶識を実我と執じていたのを一切諸法の平等の自覚によって、慈悲心を生ずるのである。これら妙観察智と平等性智は佛法の本意を正しく理解したとされる入見道の位に一分をうるというのである。やがて、修行満足して佛果の完成の時、前五識は転して成所作智となり、佛道に志す人々に種々の神通を現じ、自らの願いを実現するのであり、そこに佛果の妙境を具現するのであり、これを成所作智、大円鏡智というのである。

このようにして、インドの佛教は阿毘達磨(abhi_dharma - 対法)とよばれるのに相応しい佛教として、説一切有部とか経量部とかの部派佛教として展開し、ことに経量部は、続く中観、瑜伽行唯識などの大乗学派と交渉関連しながら展開してゆくのである。しかし、このような教学を重んじて展開した佛教は、やがてインドの実際的実践を重視する傾向のなかで、自らを成佛するものとして位置ずけ、その実践に励む教えへと展開していったである。これが、後に如来蔵縁起宗の名で呼ばれた如来蔵佛教である。この佛教は前の中観や唯識の教学とは異なって、全く実際的であった。最近この教えは佛教の立場を逸脱するものとの批判もあるが、多分にインド的風土性をもつ後のインドの密教に其の思想的根拠を与えたものとして注意すべきである。

それでは、その如来蔵思想とはどのようなものであろうか。この場合、如来蔵とは如来を蔵するということと、如来に蔵せられているということとを意味しているといわれる。即ち、この自分は自身の中に如来を蔵しているのであり、同時にこの自分が如来の胎内に在って育てられるのであるというのである。いわば、佛となるべき私が佛に育くまれて佛になるというのである。ところで、このような思想は、古くから伝承されてきた在家の信者達の佛塔崇拝に源を持つものと思われる。それは、如来蔵の言語がtathqgata_garbhaであることに示されている。このtathqgata_garbhaはまたdhqtu_garbhaともいわれる、このdhqtu_garbhadqgabaとなり、dagovaとなり、pagodaとなったのである。正しく舎利塔である。周知のごとく、釈尊入滅後、その出家の弟子達は師の教えを学び、教えに従って、戒律を守って生活した。ところが、他方在家の人々は師の遣骨や遺髪や持ちものを祀つて、師を偲び、出家者の修行を助け僧伽<saxga>を造ったのである。

V

佛教教団が如何にして始まったかということについては,必らずしも明らかではない。しかし、佛入涅槃の後、出家の人々も在家の人々も、すでに亡き釈尊を億びながら日々を過ごしていたことはいうまでもない。即ち、荼毘の後、その遺骨を分け持って帰った八大国の王達は舎利塔を建ててこれを祀り、信者達は釈尊が生前所持されていたもの、着ておられた衣服などの形見に釈尊を億び、出家の人々は生前の師の教えを仰ぎながら、日々の修行に励んでいたであろうことはあきらかである。所謂、舎利〈sarira_dhqtu〉遺物〈paribhoga_dhqtu〉経典〈udesika_dhqtu〉などのdhqtu崇拝である。ところで、このDhqtuには、一つにはan elementally substanceの意味があり、その点でこれらが教団の構成要素であることを物語っている。また、二つにはmetallicoreの意味があり、鉱石の原鉱をいうが、もしこの味でdhqtuを考えるならば、それは、教団は人々の集団として種々の姿をしめすかもしれないが、そこには、常にこれらがその根本に存在していることを物語るものであろう。後にこれがdhqtu_garbhaとして佛塔崇拝となり、舎利崇拝の伝承のなかに展開して、如来蔵縁起の佛教となるのであるが、そこでは、従来は教学として展開した佛教が実際的佛教となり、舎利崇拝の実践の中で如来蔵ということを、信者達は現にある自分に投影してみるようになったのである。

さて、この如来蔵について、如来を蔵し、如来に蔵せられ、煩悩に覆蔵されているなどと、能蔵、所蔵、隠覆蔵の三義をもって、これを解釈するのである。即ち、煩悩に覆われて迷いの生活を送っている自分を見詰めながら、この自分の中に如来(佛性)をみ、この如来性を開発開願させると如来に育てられている自分であると、如来を信じて佛道を歩む教え、これが如来蔵佛教である。ところで、この如来蔵の佛教について、最近学者の間には、これを佛教の正銃派ではないという人もあるが、それは佛教を生きた教えとしてみない非難と謂うベきであろう。それは、ともかくとして佛教はやがて密教化してゆくのである。それは、従来伝承されてきたインドのバラモン教がドラヴィダ族などの宗教と結合してヒンドウ教に変容し.漸次盛んになってきたことと相応しているように思われるのである。大乗佛教にヒンドウ教の神々が多くとりいれられ、それらの神々にたいする祈祷や儀式が整備されたのは、これを示すものであろう。

元来、バラモン教にしてもヒンドウ教にしても、多分に呪術的な宗教であったから、その影響を受けて佛教も密教化していったのであろう。また、時代の影響の中で国王の即位式の儀式を佛弟子への入門の儀式に取り入れて潅頂〈abhi1eka〉の作法とし、また、火の神を祀る祈祷の儀式作法である護摩〈homa〉を祈祷の作法とし、この祈祷を行う神聖な場所として壇場〈mandala〉を設定するなど、このヒンドー社会の風土的影響の中で佛教はいきてきたのである。ところで、インドで密教〈タントラ佛教〉が興ったのは第七世紀頃である。しかし、このタントラ佛教の中心に据えられた真言の念誦による精神の統一維持である陀羅尼〈dhqrani〉の起源は、古く阿含佛教の中にもみられるので、思想的には古くインドで行われた除災招福を得る神呪信仰に源があるといえるが、これらは佛教では雑密とよぼれるもので、佛教で言う密教〈純密〉以前のものというベきである。

さて、それでは純密といわれる密教を興したのは誰であったのだろう。それが、一類の大乗佛教徒であったのは事実であろう。しかし、密教の側からは一般の大乗者を顕教と批判し、これを真の成佛道でないとするのであるから、大乗一般に立つものでなかったことは明らかである。殊に其処にとかれる禁呪については、後世、大衆部が禁呪蔵をもっていたといい、また法蔵部の所有した五蔵の中に呪蔵があったと言はれていることから、所謂小乗の人々の中にも、これに関わった人々がいたとも考えられる。時代的には、既に述ベたように第七世紀後半から第八世紀にかけて、所謂密教経典がとかれるようになり、中でも『大日経』の成立がその原典となったといえるであろう。この経は『華厳経』の系統にあり、中観学派にその思想をうけたものと考えられるが、大毘盧遮那佛を教主とし説法者とするものであり、他の大乗経典とは性格を異にしているのである。経典には如来が衆生を救済するのに一切智智によるとして、その一切智智について、それは「菩堤心を因とし、大悲を根本とし、方便を究竟となす」というように菩堤心を重視し、しかもそれは如実に自らの心をしり、その心に一切智をもとめるとし、如来は大悲を根本として衆生摂化のために真言とマンダラによって多くの佛身を現ずるというのである。ことに、方便を究竟となすといって現実の世界がそのままで毘盧遮那佛の世界であるという点に注意すべきであろう。この大日経の教えを真言乗といい、この曼荼羅を胎蔵界曼荼羅というのである。

ところが、此にたいして『金剛頂経』は瑜伽行唯識学派の系銃をひくと考えられ、心識説によって組織され、この曼荼羅を金剛界曼荼羅という。この方は前の真言乗の理論的なのにたいして、実践を重んずるので大いに流行した。これは左道密教とよばれ、ここに大楽思想が説かれたのである。この思想はヒンドゥ教の性力派の影響によるものとかんがえられるが、密教となって、その勢力を回復した佛教は.ヒンドゥ教の興隆のなかで民間信仰の中に流入して、やがてイスラムの勢力のインド侵略の中で滅びるのであるが、この密教は、インドをはなれてチべットに移り、ラマ教として栄えたのである。

以上.無常無我の真理観に立ち、縁起の事実のままに人々と共に苦を語り合いながら、自らへの囚われの心、煩悩の克服に努め、人生を生きることを教えた佛教は、インドという民族的風土に順応しながらも、ついにその影響力を失ったのである。しかし、釈尊はヒンドゥの神として崇拝され、人々の心に生きていることを忘れてはならないであろう。我々は、此処に思想や宗教が民族性や地域の風土性と、如何に深い関わりを持っているかという点について、十分な配慮をもたねばならないのである。

第2節.中国の場合

W

次に、一切法無常無我の真理観に立つ佛教は中国では如何に受容されたのであろうか。この点については一概には言えないが、倫理的政治的な立場に立つ中国の現実肯定の思想的立場では、直ちには受容されなかった。既に前に述ベたように、黄河流域に発達した中国文化は、天地陰陽の二元的立場の上に形成され、人々は地上で死んだ祖先が天上で秩序ある生活をおくっていることを信じ、この祖先の祭りを大切にした。しかし、彼等にとって死そのものは深い反省の対象とはならなかった。このことは、今日の中国の人々についてもいえるであろう。その為に老病死に無常を感じ、無我の絶望の中での死復活を説く思想は、なかなか受容できなかったのである。

初めにも述べたように、「いまだ生を知らず.いづくんぞ死を知らん」と言った孔子の人為的有為の世界での政治倫理を説く儒教思想と無常観無我観に立つ佛教思想とは相い入れないものであった。そのため中国への佛教の受容は、無為思想に立つ道教と結びついて行われたように思われる。例えば、インドに説かれた地獄思想は『浄度三昧経』などの経として説かれ、中国にはいって、勧善懲悪を説く道教の羅豐邑(地獄)説の中に受容される如くである。しかし、西暦紀元第一世紀頃よりの中国と西域地方との交流の中で、佛教経典が佛教思想とともに伝来するにおよんで、佛教は中国の風土に同化して、所謂中国佛教を形成するようになり.後に偽経と呼ばれた中国作の経典が成立することになるのである。例えば、孝行の倫理を説いた『父母恩重経』は儒教思想との結びつきの中で成立し、又、宋の智嚴、宝雲共訳といはれる『四天王経』には道教の根本思想に立って、現在一世の善悪の行為によって人間の寿命の長短が定まると説いているし、呉の支謙訳といわれる『三品弟子経』、魏の康僧鎧訳の『佛説無量寿経』の「五悪段」などに説かれる倫理説も共に儒教の倫理思想に基ずくものであろう。ことに、『堤謂経』では、殺生・偸盗・邪婬・妄語・飲酒の五戒を仁・義・禮・智・信の五常に配し、さらに、天地万物人事の動静を支配する理として説かれる木・火・土・金・水の五行説をも説き、儒教と佛教を調和しようとしているのである。

このように、中国では儒、道二教との調和を試みるような偽経がつくられたのである。望月信享博士の研究によれば、その数は240部をかぞえるのである。このように、佛教が中国に受容されたのは佛教が真理観に立ち、独自の世界構成説をもっていなかったからと思われるのである。

ところで、中国における佛教受容について考えておかねばならないことは、インドに興起した佛教が、恰もインドを代表するもののように中国に受容され、まさしくインド的であり、インド固有の立場にあり、インド文化を代表するバラモン教、ヒンドゥ教、ジャイナ教などが受容されなかったのは何故かという問題である。成程、佛教は偉大なる教師の説く社会革命の啓示であったとはパニッカルの言葉であり、その教えは、極めて広い層の人々を引き付けたであろう。しかし、13世紀にはインドでは滅びた教えであり、バラモン教やヒンドゥ教やジャイナ教とは性格をことにするものであり、インド的には本来的なものでなかったのに、どうしてインドを代表すのものであるかのように受容されたのであろうか。そこに、民族性や風土性を考える必要はないであろうか。この点に注意しながら、中国における佛教受容の問題を考えよう。

さて、佛教の公伝は後漢の孝明帝永平十年〈A.D. 67〉、迦葉摩騰、竺法蘭による佛像経巻の伝来であるといわれる。これらの経巻は白馬寺におさめられ、翻訳されたのである。ところで、この二人の僧がどしうて中国に来るようになつたかというと、それについては次のような事情が伝えられている。永平七年、孝明帝は「金人飛んで殿中に入る」という夢をみた。そこで、伝毅というものに、この夢を占わしめたところ、それは噂に聞いている西域の佛という名の神のことであろうといった。そこで、帝は蔡ツ音と秦景など18名をインドに遺わして佛をもとめしめた。ところが、彼等はインドに向かって旅だち進む途中で、この二人の僧に出会った。そこで、この二人を伴なって帰ったというのである。

この話は一種の伝説であるが、既に古くからインドから中国への通路として、西域地方が利用されていたことを示している。例えば、秦王政の四年〈B.C. 243〉西域沙門室利房等の18名が始めて中国にきたが、王は彼等の奇異な風体をみて捕えて獄に投じ、国外に追放したといい、また、前漢の武帝.元狩年中〈B.C. 122-117〉霍去病に命じて句奴を撃たしめた時、彼は丈余の金人を得て帰ってきた、帝はそれを大切に祀り礼拝した等、種々の伝説が伝えられている。これらを考えると佛教の私伝は随分と早かったことをしるのである。

ところで、伝説に見られるように、ここに丈余の金人といわれる佛は不死の神と考えられ、その佛が空を飛んで宮中の庭に降り、その輝きは殿庭をあかあかと照らしたといわれ、この佛こそ人々の不死の願いをかなえてくれる神であるとして祀ったのであって、佛教そのものの教えの受容ではなかったといわねばならない。しかし、やがて本格的な経典の翻訳期にはいる。それは、A.D. 147-176頃の安世高、支婁迦讖等の経の訳出である。安世高は安息国〈パルティア〉の王子であったと謂われているが後漢の桓帝.建和元年〈A.D. 147〉洛陽にきて霊帝の建寧四年〈171〉まで約二十余年間に、経典約30部37巻を訳出したといわれる。彼は教学的には阿毘達磨の学者であるが禅経に通じていたと謂われるから、部派佛教の学者であり、実践家であったのであろう。〔開元禄〕ところが、支婁迦讖は月氏の人で霊帝の光和〈A.D. 178 - 182〉中平〈A.D. 184 - 189〉の間に『道行般若』『首楞厳』『般舟三昧』等の大乗経典を訳出した。〔23部67巻〕

さて、このように佛教の典籍が伝来される頃、中国では人々は鬼神を祀り、方術師は治病攘災などに活躍していた時代であった。そこでは、神仙の道がとかれていた。不死の神仙となって天上に昇り、天神となった黄帝や老子が祀られる時代であった。此が黄老の教えといわれ、道教として中国の民俗的宗教とし展開していったのである。このような中に伝来した佛教は釈尊の教え釈教として、インドの不死の神仙の教えとして受け取られ信奉されたのである。前に挙げた道教と結びついた経典は、このような中で造られたのである。ところが、佛教は、教えとして教義を伝えただけでなく、礼拝の対象として金色に輝く佛像をもち、儀式も整され、伎楽〔音楽〕までも一緒に伝えたので、中国在来の道教はこれに圧倒され、第三世紀、第四世紀には佛教は広く中国にひろまったのである。

しかし、中国の思想としての儒教には、佛教は簡単には馴染まなかった。そのために、訳経僧たちは中国の人格至上主義的な考えに馴染むようにと経典の訳出に心をつかったようである。陳舜臣氏は『中国の歴史』第六巻に、その例を幾つかあげている。例えば、支婁迦讖訳『無量清浄平等覚経』の中の阿弥陀佛の本願の第三願の言語表現について、次のように指摘している。本来この願は、梵原文には「若しわが国に生じた有情が、皆同じ色、即ち金色でなかったならば、吾は無上なる正等覚をさとらないであろう。」とあるが、ここの諸有情〈sattvas〉を支讖は「我作佛時.人民有来生我国者.不一色類金色者我不作佛」といって、人民と訳している。この人民の訳語に注意して「原文の生きもの〈sattva〉は人間に限りません、生きとし生けるものを意味しています。サンスクリット辞典にはliving beingという訳語のほか、animal, ghost, demonなどをならベています。動物ではなく、亡霊や精霊まで含められるのです。これは人間主義の中国にはなじまないので、支婁迦讖は「人民」と訳しました。もちろん、原文の意味を知っての上で、方便として不正確な訳を与えたのです。

人間以外の生きものを含めて、それらが人間とともに救われるということを中国人に説明するのは大変むつかしいでしょう。それは佛教の真髄にかんすることのはずですが、初期の中国における佛教の布教者は、そこをさけて通ったように思われます。這入りやすさを考えたのです。詳しいことは這入ったあとで、辛抱強く説明しようとしたのかもしれません。

人間主義の儒学では、人間と他の生きものとを厳重に区別しています。「禽獣の行為」といえば、最高の非難の言葉です。しばらく中国に住むと、このことがわかり、西域の訳経僧たちも「生きもの」の直訳はまずいと思ったのでしょう」といっている。勿論、魏訳の『大経』では「国中人天」呉訳では「国中諸菩薩阿羅漢」といい、唐訳では「国中有情」、宋訳では「一切衆生及閻魔羅界三悪道中.地獄餓鬼畜生」となっていることは注意すべきであろう。

以上述べてきたように中国における初期の訳経僧たちは、中国の風土的思想の考慮の中で訳経に従事したのである。それは儒教の立場、道教の精神を考慮したためである。このように中国に伝えられた佛教は、中国の風土に同化しながらひろまってゆくのである。しかし、多くの訳経僧達によって伝来される経典は、やがて中国的風土性をもった佛教として、所謂、中国佛教を形成してゆくことになる。これらについて、ここで詳しく述ベることは差し控えるが、つぎに、その概略を述べて、その模様を確かめておこう。先ず、第三世紀初頭には魏呉蜀などの国々があったが、その中、北方魏では中印度の曇柯迦羅と安息国の曇諦とが戒律を伝え、朝廷に奏して出家授戒の作法を定めたといわれている。また、康居国の康僧鎧、亀茲の白延などによる阿弥陀佛経典の訳出は、後世の浄土教の形成に大きく影響することになった。ことに頴川の出身である朱子行は、中国人として、始めて授戒の作法にしたがって出家した僧であり、自ら西域于[+]に趣いて、後に無羅叉によって訳出された『放光般若』の梵本を将来したことは注意すべきである。次に南方呉国では月氏の支謙が後漢末の乱をさけて、この国に来たので孫権は彼を優遇して博士として東宮の補導とした。『開元録』によれば、彼は88部118巻の経律論を訳出したといっている。孫権は、また南海を経て建業にきた〔赤烏十年.247〕康僧会を崇拝し、建初寺を建て、そこに住まわしめた。彼は主に教化につくしたので、佛教は大いにひろまった。

このようにして三国時代約40年はおわり、ついで五胡十六国の興亡時代にはいり、それを過ぎて西晋時代約五十年となるのである。この時代の佛教は洛陽を中心とするものであるが、当時、長安の寺塔とあわすと百八十か所あったといわれる。有名な訳経僧には竺法護.安法欽.竺淑蘭.法炬などの人々があり、中でも竺法護の訳出は『光讃般若』『正法華』『無量寿』『弥勤下生』など後の佛教に大きな影響をおよぼすような種々の経典を訳出したのである。次いで、時代は東晋代にはいる。この時代は政治の乱れと社会の不安の中で、厭世的自然主義の風潮のみなぎっていた時代であった。所謂、清談といわれる幽玄放逸な議論や礼儀節度をはずれた行動が好まれた時代である。このような社会的風潮は佛教の中の般若の空観が人々の注意するところとなり、この般若の教えと黄老の無為の教えとの結びついた、いわゆる格義佛教が行われた。

ここでいう格義とは『高僧伝』第三に「経中の事数を以て外書に擬配し、生解の例となす。これを格義という。」といっている。即ち、外教である老壮の学に附会して般若の教理を説明するという妥協的学風をいうのである。このような風潮の中で正しい佛教を明らかにし、仏教徒の自覚を促そうとした人に、北方■都における神異の大和尚佛図澄に師事し、後に襄陽に移り住んだ、所謂、弥天の道安(314 -385)がある。彼は中国の民族習慣に適応した僧尼の生活規範を定め、ことに従来まちまちであった僧尼の姓を釈氏に統一した。また、多くの種々の経典の戸籍をあきらかにし、其の目録をつくった。これが『綜理衆経目録』である。更に、解釈の常軌として序分・正宗分・流通分の三分科をつくったことは、その後の経典解釈の規範となり、今日に及んでいるのである。

さて、この道安の弟子に慧遠〔334 - 416〕がある。彼は道安が襄陽から長安へ移り住むにあたって、師と別れて江西の廬山にはいって、専ら念仏修行にはげんだ。当時の清談の弊害に飽きた人々は、かれを慕って集まってきた。そこで彼は東林寺般若台に白蓮社を結んで、同志百二十三人とともに阿弥陀佛像のまえで観念念仏の行を凝らした。これが廬山流念仏であり、中国浄土教のもとをなすものである。

以上のように東晋時代の佛教界は、ようやく中国佛教として形成されることとなったのである。『開元録』によれば、訳経者は16人、訳出経典は168部468巻と誌されている。この時代になって、中国人の西域求法の僧が現れたことは注意すべきことである。なかでも、15年間にわたって広くインドを旅行し、インド・西域・南海の地理風俗宗教等を紹介した『法顕伝』といわれるインドの旅行記を書いた法顕の功績は注意すべきである。また、後に華厳宗の根本聖典となった『大方広佛華厳経』60巻を訳出した佛陀跋陀羅もこの時代の人である。

ところで、他方、第四世紀前半頃から晋の王家を江南に追いやって江北を占領したのが、五胡諸族であった。即ち、匈奴〔トルコ族〕鮮卑〔ツングース族〕氏〔チベット族〕■〔チベット族〕羯〔トルコ族〕の五族である。これらの諸族は素朴であり、組織的な宗教をもたなかったので佛教の受容には素直であった。しかし、それは宗教として受容するというよりは、政治上軍事上の助けを得ようとした国王達に力を貸すことになったのであった。といっても、有識な僧侶たちの人格は、人間的に大きな影響をあたえた。そして、これらの国々に次第に佛教は広まっていったのである。それの端緒をひらいたのが佛図澄であり、やがて、後に四大翻訳家といわれた中の一人である羅什などであった。羅什については、その訳業が偉大であったために政治的な面はあきらかではないが、国事についても種々助言したであろうことはあきらかである。また、神僧といわれた僧朗があり、不幸な生涯をおわったが苦労して北本涅槃経を将来した曇無讖〔385 - 433〕の存在を忘れてはならないであろう。このように五胡諸族の佛教受容は神異を重んじ、国王の政治顧問として、僧侶が重んじられたために、国家佛教的色彩が濃厚となり、前の江南の佛教とは異なった在り方となった。

このようにして、この江北の佛教は北朝佛教発展への原動力となったのであり、江南の佛教は南朝佛教へと展開したのである。

X

世紀四百二十年、東晋は滅んで宋が興り、ついで南斉・梁・陳と約160年続くのである。この間、歴朝の天子や名門出身の僧達によって佛教はさかえた。この江南の佛教の特色と思われるものに僧官の制度がある。即ち、インド伝来の旧習にしたがつて僧は王者に敬礼しないとするところから、佛教教団は国王の権力以外に、別に自治を認められていたのである。そこでは、僧の風紀問題ばかりでなく、僧の殺人以下の罪を僧制によって処断するという司法権をももっていたのである。このように教団は社会的に高い地位にたっていたのである。たとえば梁の武帝が自らを佛前に捨身して三宝の奴と称したことは有名なことである。

学問研究の面でも、この時代は優れた学僧が多くでた。宋代に西域の■良耶舎は『観無量寿経』を訳出、中インドの求那跋陀羅は『勝鬘経』『楞伽経』を訳出し、盛んに世におこなわれた。南斉では僧伽跋陀羅が広州竹林寺で『善見律毘婆沙』を訳出、これによって釈尊入滅年代をしる資料としての衆聖点記説が伝えられたことは特筆に価するであろう。次に、梁代には僧旻.法雲.智蔵の三大法師によって成実学派がおこり、また菩堤達摩によって禅観がつたえられた。さらに、陳代には道朗.僧詮.法朗によって三詮学派が再興され、殊に天嘉四年〔563〕の真諦による『摂大乗論』の訳出は、インドの無着.世親の唯識恩想を伝えたものとして教学界を賑わわした。彼は約20年間に64部278巻の経論を訳し、四大翻訳家の一に数えられた。彼の『摂大乗論』及び、その『釈講』の訳出は摂論学派を形成し、また、勒那摩堤.菩堤流支による『十地経論』の訳出は地論学派を形成することになった。このようにして南朝の佛教は学派佛教として盛んに教学研究をおこなった。

ところが、このような教学研究は、在来の中国思想、特に儒教の研究と種々交渉をもつことになった。例えば宋代の何承天のように伝統の儒教の立場から佛教にたいして厳しい批判をおこない、排斥的言論をなしたようであるが、これにたいする反駁論も強く、結局、儒佛二道は調和の方向に進んだ。この外に文学や美術の方面にも佛教は大きな影響をあたえているのである。

さて、他方、北朝の方は後魏〔北魏〕〈420 - 533〉の後、東魏〈534 - 549〉西魏〈535 - 556〉と別れ、東魏のつぎに北斉〈550 - 580〉、西魏のあとを北周〈557

- 580〉と、それぞれに興亡しながら、やがて隋に統一されるのである。このように、北朝は数王朝が興亡を繰り返したが、風土的にはその在り方は変らず、主として胡族王者の下に漢族が統治されていたのである。ところで、江北の流れをうけてきたこの北朝の胡族の王たちの佛教にたいする態度には、江南の王達と異なるものがあった。後魏の第一代道武帝は大いに佛教を保護し、多くの寺をたて、僧法果を道人統として僧達を管摂せしめた。これが北朝の僧官の初めである。ところが、帝の孫太武帝は当時ようやく盛んになってきた道教に関心を示し、平城の都に天師道場を建てた。たまたま、北地に蓋呉の反乱がおこり、これを治めるために軍を卒いて長安にやってきた。其処で帝は長安の佛寺に兵器の蓄えられていることを知り、また、僧の中に間違った行いをしているもののあることを知って、大いに怒り、この時から廃佛となった。太平真君七年〈446〉春、詔して天下の僧侶を坑殺し、佛像・寺塔を壊すこととした。これが三武一宗の法難の第一である。道教徒の佛教徒への排撃によるものとも考えられる。その後文成帝により佛教は復活され、一般の教化とともに社会救済事業をもおこなうようになったのである。雲崗・大同の石窟寺院の建造は注意すベきであろう。

文成帝の後、献文・孝文・宣武・孝明と代々の帝王は佛教を尊崇し、これを保護したために、洛場城内外に約一千余の寺院があり、一寺に住僧三千人にのぼる寺院があったといわれる。

しかし、やがて孝荘帝・廢帝・出帝と続き、これが束西両魏に分裂し、洛陽の佛教は衰えた。ところが、北斉の文宣帝の佛教保護によって、この時代には北魏が僧尼二百萬、寺三万余といわれたのにたいして、僧尼三百萬、寺四萬余といわれ、佛教の繁栄ぶりがしられるのである。他方、西魏のあとをうけて興った北周では、全く反対の状況であった。武帝は建徳三年〈574〉と同六年と二度にわたって排佛をおこなった。三武一宗の法難の第二の周武の法難である。これは、武帝が佛教を嫌ったのではなく、奢侈的になりりつつあった佛教教団を改組しようとしたのであるが、それが周囲のものの画策のため破佛にまで進んだといってよいであろう。武帝は僧侶を斥け、彼等は偶像の崇拝者であるとして、佛像の破壊と僧の還俗を強制した。これにたいして、僧達は大いに抗弁し、これこそ道教の誣告によると指摘したので、武帝は佛道二教を共に廃することになった。ところが、このような法難にあった僧侶達は経文だけは何としても残さねばならないと石窟に石経を刻むことになった。有名な房山石経が、これである。

以上に述べてきたように中国において、佛教は常に儒教や道教などの土着の思想との関係交渉の中で展開したのであるが、やがて、隋代・唐代になって、所謂、中国佛教を形成することとなるのである。

さて、北周の外戚であった揚堅はA.D. 581北周の末帝静帝の譲りをうけて隋朝を立て文帝となった。その後、即位九年に南北を統一したのであった。ところで、この政治的統一を完成するためには、文化的思想的統一を必要とした。そこで、当時、南北にわたって人々の心に浸透しつつあった佛教の活用を思いたったのである。もっとも、文帝自身、幼少の頃から後には佛教興隆の天子となるであろうと予言された、と言われるような環境に育ち、佛教に因緑の深い人であったから、即位後、佛教による治国を考えたとおもわれるが、帝都長安をはじめとして各地に寺院を建て、一切経を書写せしめるなど、佛教の伝播につとめた。鎮護国家の道場としての長安大興寺の建設、教化機関としての五衆主、二十五衆の制度の設置、さらに仁寿元年〔601〕学校を廃して儒教的教育を停止する意向をも示したのである。また、国内に佛舎利を領布して造塔供養を行わしめた。

この様な佛教保護によって佛教教団は政治と結びついて、中国に広まっていったのである。次の唐朝の武宗の会昌二年〔842〕頃より、道士の中傷によって同五年、所謂会昌の法難が異り、全土で廃毀された寺4600、蘭若4万、還俗僧尼26万500人、その他寺領庄園の没収、寺に使われていたもの15万人が解任されたと伝えているが、この法難も武宗の死によって終り、佛教の中国化、その組織体系化としての教相判釈による宗派佛教の興起となるのである。即ち、隋代には天台宗〔天台大師智[豈頁]、〈538 - 598〉によって開宗〕、三論宗〔嘉祥大師吉蔵〈549 - 623〉の開宗〕があり、浄土教〔北魏の曇鸞、道綽〈562 - 645〉善導〈613 - 681〉等〕と三階教〔信行〈540 - 594〉〕が宗派的な形でおこり、唐代には法相宗〔慈恩宗;慈恩大師基〈632-682〉〕華厳宗〔賢首宗;賢首大師法蔵〈643 - 712〉〕律宗〔法■〈569 - 635〉の相部宗・道宜〈596 - 667〉の南山宗・懐素〈625 - 698〉の東塔宗〕禅宗〔神秀〈606 - 706〉の北宗禅・慧能〈638 - 713〉の南宗禅〕、密教〔善無畏〈637 - 735〉金剛智〈671 - 741〉不空〈705 - 774〉〕等が開宗された。

以上に挙げた各宗派の教学形成にあたっては、それぞれに教相判釈をおこなったのが、中国佛教の一つの特色である。教判とも呼ばれるこの教相判釈とは、佛陀一代の教説を時間的に、形式的に、さらに内容的に分類し、佛陀の出世の本意が、何処にあったかを明らかにして、自宗の立場を確立するためであった。この様な教判は南北朝時代から行われてきたが、其は種類の異なる経典が将来され、それが渡来の訳経僧達によって訳出され、しかも、何れの経典も如是我聞で始まる佛陀金口の説法と考えられた。そこで、これらの多くの経典の中で、何れの経典の所説の中に、佛陀の真意かあるのかが確かめられねばならなかったのである。このような事情は佛教の故国インドでは起りえなかった。それは、時を異にし、場所を異にして、種々の経典が成立したからである。ところが、中国では時をへだてることなく、次々と経典が将来されたからてある。試みに現存経録の中、最古の経録『出三蔵記集』〔梁僧祐撰.A.D. 502 - 520〕によると、有訳450部・1867巻、失訳1623部・1912巻、抄経46部・352巻、疑偽経70部・287巻とあり、総数2189部・4418巻となる。勿詮、当時これらの経典が丸て現存していたのではないが、しばらく、正しく経典と言い難い抄経や疑偽経を除くとして大体1300部・2600巻の経典があったことになる。そこで、これらの経典について、ぞれの真偽を判定し、その所説の内容を或種の基準を設けて分類し、そこに佛陀の本懐をたずねたのである。このような試みを行った道安の『綜理衆経目録』によれば、有訳については『僧祐録』と同じであるが、異訳経については古異経・涼土異経・関中異経をよせて175部・195巻、失訳142部・147巻をあげているのである。この中、疑偽経、抄経は中国で成立したものと、抜き書きの経典であるであるが、このように経典にたいする批判的な取扱いをしたことは注意すベきである。しかし、其以外の多くの佛説とされるものについて、それを部類分けすることによって佛陀の本意をもとめたのである。

この『出三蔵記集』以後、今日の大正大蔵経の『昭和法宝総目録』にいたるまで、その主なものだけでも26を数えるのである。中でも初めての大蔵経刊行の拠リ所となった『開元釈教録』に注意すべきである。そこでは経律論の三蔵と賢聖伝とを大乗と小乗とに分けて、大乗について638部2745巻、小乗について438部2303巻、総計1076部.3821巻を記しているのである。この『開元釈教録』は唐の玄宗開元十八年〈A.D. 730〉に撰述せられ、これによって蜀版の大蔵経が印行されたのである。時に北宋.太平興国八年〈A.D. 983〉であった。それ以後、南宋・元・明・清と歴代に約17の大蔵経の刊行がなされいるのである。

さて、以上のような多くの典籍によりながら、これらに説かれた教えを優れた頓機にたいして説かれた頓教と、教えを漸々に了解する漸機にたいする漸教との頓漸二教にわけて経典を分類し、また佛陀の説法を形式の上から有相・無相・抑揚・同帰・常住に分けて、これに経典を配分し、思想内容より因緑・仮名・破相・顕実などと分類した。これを教判というのである。これらの中でも、とくに完備したものとして天台の五時八教判や華厳の五教十宗判なども、このような中にあらわれたのである。このようにして中国佛教は宗派佛教として伝承されてゆくのである。しかし、本来、理論より、実際を重んじ、実行を尊ぶ中国の風土的な特色は、唐武宗の会昌の法難以後、実践的実際的な禅宗や庶民教団としての浄土教の発展をもたらしたのである。

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中国佛教界において、優秀な人材として人々から尊敬され、その教学の長い伝統をもったのは北魏の慧光とその系統、隋代の天台とその系統、唐代の慧能とその系統といわれている。即ち、律と学と行の系統である。中でも、最も影響の強いのは慧能系統の禅であった。しかし、三武一宗の法難によって佛教は漸次衰微の方向にあったが、中国佛教としては完成していたといえるであろうから、これが中国の思想家たちに影響を与えなかったとはいえない。周子.張子.朱子.欧陽子などの儒家がいずれも多かれ少なかれ影響を受けたといわれている。勿論、儒家の側からは、これを認めようとはしないが、中国における佛教が、既にインドの佛教ではなく、中国人によって組織化されたものであったから、儒教に影響したことは当然であろう。このことは、前にあげた儒教や道教の思想をもつ種々の偽経の成立に確かめることができる。

唐代に興起した律宗の中、東塔宗は閻もなく亡び、相部宗も五代程続いて消失し、唯、ひとり南山宗のみが継続していた。宋代には此の南山宗に允堪〈10051061〉がでた。彼は真悟智円大師といわれ、初め天台宗を学んだが、ことに律に通じ、南山道宜の著作に註釈を書き十本の記主とよばれた。ことに『行事鈔』に注して『会正記』をかいた。そのため南山宗中の会正宗とよばれた。ところで、この允堪の後を弟子擇其が継ぎ、その弟子に元照がある。この霊芝元照〈10481116〉は大智律師といい、菩薩戒を受け、浄土信仰に厚かったが、法華によって南山宗を解し、道宜の三大部に註した。その中、『行事鈔資持記』では『会正記』と意見を異にし、遂に会正、資持の二宗となった。しかし、その後は余り振はなくなった。

次ぎに教学界の主導権を握った禅宗をみてみよう。第六世紀に円覚大師菩堤達磨によって伝えられた禅は慧可、僧粲、道信、弘忍と伝承され第六祖慧能の時、隆盛期を迎えた。慧能〈638713〉の弟子に南岳懐譲〈677744〉青原行思〈−740〉荷沢神会〈668760〉などがあり、南岳の弟子馬祖道一〈709788〉、その弟子百丈懐海は「百丈清規」をつくり、儒者に三代の禮楽此中にありと嘆ぜしめたといわれるほど厳粛綿密なものであった。この禅院の諸法式の設定により禅院は、従来の律院から独立したのである。この百丈の弟子三十人の中、偽山霊祐〈771853〉黄檗希運〈−855〉が有名であるが、その中、偽山に弟子仰山慧寂〈840916?〉あリ、このニ人によって偽仰宗が成立した。他方、黄檗の弟子に臨済義玄〈−867〉あリ、彼によって臨済宗が成立した。この臨済の後、興化、南院、風穴、首山、汾陽の五代を経て慈明楚円〈9871040〉あり.彼の弟子に黄龍慧南〈−1069〉、揚岐方会〈−1049〉あり、前者は黄龍宗、後者は揚岐宗をひらいた。この二宗は後代まで盛んであり、日本の臨済宗栄西は黄龍宗の虚庵懐敞からうけ、黄檗宗は揚岐宗の隠元が伝えたものである。

ところで、他方青原行思には弟子に石頭希遷あり、其の弟子に潮州大顛、天皇道悟、薬山惟儼あり、天皇に龍潭崇信、その弟子に徳山宜鑑〈780865〉、その弟子雪峰義存〈822908〉、その弟子に雲門文偃〈−949〉、玄沙師備〈837908〉あり、前者は雲門宗を開き、後者に羅漢桂珍■〈867928〉あり、その弟子清涼文益〈885958〉は法眼禅師といわれ法眼宗をひらいた。他方、薬山に無住大師雲厳曇晟〈782841〉あり、その弟子洞山良介〈807869〉その弟子曹山本寂〈840901〉によって曹洞宗がひらかれた。

以上に略述したように禅宗は、この宋代以後も元、明、清まで継続して盛んに流行した。

前に道安に師事し、後に師と別れて盧山に入って白蓮社という念仏結社を結んで、後世の浄土教の祖師と仰がれた慧遠について述べたが、この念仏の集団は因果応報観を基礎として、しかも、これを超えようとするものであった。それは、善行を積む家には必ず幸せ〔慶〕があり、不善の行いをなす家には必ず禍があると説く老荘の教えに親しみをもっていた慧遠自身にとっては、当然であったとしても、この集団は平凡な一般庶民にはついて行けないような厳しい集団であった。即ち、そこで実行されたのは『般舟三味経』に説かれた念仏三昧であり、その厳しい精神集中の修業は集団への人々の加入を制限することになり、結局は隠遁的、方外的な佛教教団となってしまった。このように、この集団の説く因果応報の考えは申国の伝統思想にもあり、中国人には何らの抵抗もなく受容されたのである。ただ、中国では、すでに触れたように現世における因果応報を説くのにたいして、ここでは三世にわたっての因果応報論であったことは注意すべきである。このことは『釈疑論』を造って慧遠に疑問を提出した戴逵〈335396?〉にたいしての答えの後に書かれたと思われる『三報論』に業の報いに三ありととかれていることによってしられる。現実の生活はすべて自己や個々人が、それぞれにおいて責任を負うべきものであり、その反煮のもとに将来の幸せをうべく努力すべきことを説いたのである。

ところが、このような世間から離れた念仏集団を建てかえたのが、華北にでた曇鸞〈476542?〉であった。彼の『浄土論註』は浄土教の教学を組織体系化する拠り所として重んぜられたのである。これは「世尊我一心 帰命尽十方 無碍光如来願生安楽国」に始まる世親の『浄土論』の注釈であり、内容を礼拝・讃嘆・作願・観察・廻向の五念門によって成仏道を組織化したのである。即ち、阿弥陀佛を礼拝し、その徳を誉め、その佛の国に生まれんことを願い、其の佛の国土を観察して、自らの積んだ功徳を悟りの世界に振り向けることを教えたのである。このように、組織づけられた浄土教は道綽〈562645〉にうけつがれ聖道.浄土の二門に分けられ、捨聖帰浄がとかれたのである。そこには、佛教で説く時代観としての末法思想が語られていた。これを、さらにこのような末法でしかも劫濁・見濁・煩悩濁・衆生濁・命濁と言われるような時代に、人々の救われる道は念仏の道より他にありえないと、念仏の教えを説いたのが善導〈613681〉であった。そしてこの両師によって、浄土教は庶民の中に広まっていったのである

ところが、宋代になると、この善導流の念仏がすがたを消して盧山の結社念仏が盛んになったのである。これは杭州昭慶寺の省常〈9591020〉の浄行社がその先駆を為したといわれている。このようにして盧山の慧遠から善導.承遠.法照.少康.延寿.省常と七代にわたる相承を説くのであり、これが中国浄土教の伝統である。しかも、このような念仏の教えは、延寿では禅との一致と説かれ、四明の知蔵は浄業社を結び、天台との融合をとき、律宗の元照も念仏社をむすんでいるのである。このようにして中国の浄土教は日本浄土教とは様子を異にしているのであリ、ここに、風土性や民族性の影響をみるのである。

このような中国佛教の姿は日本の宗派佛教と異なって、今日中国の佛教の寺院にみられるように、寺院は佛教の寺院であり、其処には禅も念仏も天台も華厳も同居しているのである。わが国のように、それぞれの宗派がそれぞれ別々の寺院としてあるのとは様相を異にしている点は注意すべきである。

以上、中国の民族性と風土性を考慮しながら佛教の受容と伝承を述べてきたが、この中において慧遠の『沙門不敬王者論』について触れておく必要がある。というのは、王法と佛法との関係は、わが国においても常に問題とされてきたからである。前来述ベてきたように、佛教は中国古来の儒教や道教と関係しながら、しかも、それぞれの時代の王朝の消長と結びついて展開してきたのである。その伝承の中で三武一宗のような法難があったが、それらは必ずしも国家の不当な弾圧ではなかった。そこには佛教の集団の国家統制を乱すような事態があったことは否定できない。慧遠の前記論書はこのことを物語るものである。

東晋の孝武帝はA.D. 396年九月、愛人の手によって殺され、白痴に近かった長子司馬徳宗が15才で帝位に就き安帝といった。そこで.その政治の実権は、自ずから随従者のもっところとなり、当時、地方で軍事上の権力をにぎっていた広州刺吏桓玄〈369 - 404〉が極めて短時日ではあったが帝位についた。この桓玄31才の時、盧山に趣いて、66才の慧遠と問答したのである。勿論、慧遠を尊敬し佛法を聴くためではなかった、かれが儒教の「身体髪膚これを父母にうく、あえて毀傷せざるは孝のはじめなり」の教えを信じ、慧遠にこの戒めを破って剃髪して、なぜ出家したのかと尋ねたことは、これを物語るものであろう。

ところで、桓玄は沙門といえども天地の恩恵を受けて、この世に生きているのであるから、この天地を治めている天子を尊敬し礼敬するのは当然のことであろう、しかるに、沙門は王を礼敬しないというのは、自分勝手な議論であって、許さるべきことではないというのである。しかし、此は佛教の集団の凡てにたいするものでなかったことは、かれの佛教教団粛正についての命令の中に示されている。即ち、そこには次の如く誌るされている。

“佛教は無為の世界を説き、現在の人間の欲望を断てと説く。ところが、今の佛教はこの根本を忘れている。首都の寺院は建物の華麗さを誇り、そのため国の財政を危くしているし、中国の伝統の儀礼は汚されている。それのみならず、国の税金や義務としての労働から脱出するために寺にはいるものがあり、国法を無視するものや、無頼の徒が寺にあつまっている。これでは国の政治を乱すことになり、許すことはできない。そこで、経典を正しく理解し、講義のできるもの、戒律を守り、清浄なる寺に住み、世間の利益や名誉に惑わされない沙門は別として、それでない沙門は寺から追放し、それらの者の戸籍を管理して、厳重に取締まらねばならない。ただ、盧山だけは有徳の沙門のいるところであるから除外するよう。”

此処に示されている桓玄の通達は、当時の佛教界の姿を示しているし、彼が殊更に佛教を迫害しようとしたのでないことを示している。しかし、佛に仕えるからといって天子である王を礼敬しないことは納得できなかったのであろう。それが、慧遠への質問となったのである。その答えは五章からなっている。1沙門不敬王者論在家第一 2沙門出家第二 3沙門求宗不順化第三 4沙門体極不兼應第四 5沙門形尽神不滅第五などである。これらを簡単に説明しておこう。第一は沙門とならずに在家のままの信者は、当然、王を礼敬し精神的にも肉体的にも王を尊敬しなければならない。これは佛教が現実生活を重んじ、王の教化を扶けるものであることをしめすものである。第二は親から受けた髪を剃り、世俗の服を脱いで法服を着るのは自己の不退転の決心を示すので、それによって僧侶の徳を積めば、その徳は一族だけでなく、恩恵は世界全体に及ぶことになる。したがって、それは親不孝にならないし、王に礼を欠いても不敬にならないのである。次に第三については、帝王の教化は生滅変化する造化の天地の働きに従つて行われるものであるが、究極の道を求める佛教徒はこの生滅に煩わされない生き方を生きるのであるから、沙門は帝王の教化には従がわないのである。第四には究極の道を体得した真の佛教者は、内面的な宗教的聖人の道と外面的な帝王の道とを兼ね備えたものであるが、尭帝や孔子の世間的なものを超えたものが佛陀釈尊の教えであるから、その優劣は論ずるまでもないことである。最後に第五は火が薪に燃え移つてゆくのは、霊魂が別の肉体に伝わってゆくのと同じである。ところが、正しい道理を理解しないものは、一本の薪が燃えっきるのをみて、火そのものが尽き果てたと考えるのと同じで、肉体が一生で滅がたのをみて、霊魂も精神も肉体と共になくなったとかんがえる。これは、精神と肉体とは死によって滅びないとした『荘子』の精神にも反することになるというのである。

この慧遠の沙門不敬王者論をみる時、彼の政治と宗教、特に佛教についての考え方をしるのである。即ち、中国伝統の天の意を地に伝え、地の意を天に伝え、天地の正しい運行を司る任にある天子にたいして佛教者といえども、帝王を礼敬するのは当然であるとし、世間においての帝王の道を守るべきことを説いている。しかし、出家して法服をつけ戒律を守り清浄な生活を山中におくり、世間的な名誉や利益にとらわれない沙門は、世間を超越してはいるが、その人格としては、内面的には宗教的堅人の道と外面的帝王の道を兼ね備えているもので、帝王にたいして礼敬しなくても不敬にはならないというのである。ここには、佛道を歩み修行することが、すべての人々を道の世界に解放するという広大な徳を積むことになるという考えが示されている。この点、後世の帝王を礼拝する必要なしといったり、わざと帝王に出会うことを避けたりした人々とは、その考え方を異にしていたというべきであろう。又、ここに見られる霊魂の不滅の主張は原始経典にとかれる無記答説の趣旨には一致しないが、中国思想の伝承に添った佛教の風土性化と考えるべきであろう。このような思想的風土化は日本の佛教の場合にもみられるのである。

さて、さらに元.明.清と続いて行く中国の佛教の様子を考え、中国民族の民族性とその風土性がどのように影響しているかについて考えねばならないが、前来、余りにも述べすぎて主題から離れ冗長に流れた嫌いがあるので、次下ではその要点を追うて略述することにしたい。12世紀、中国東北部を領していた女真族の国、金に属していたと思われる蒙古族の部族集団は12世紀の末に出たジンギス・カンに率いられて他の部族を従え、13世紀にその国家を形成した。1206年モーコ全土の大汗となった。1227年ジンギス・カン死去、その後オゴダイ〔太宗.在位1229 - 1241〕、グュク〔定宗〕、憲宗と続き、憲宗の弟フビライは中国を治め、また弟フラグはペルシャに遠征、フビライは1271年、国号を元と称す。これ世祖である。この欧祖の時、彼は吐蕃のラマ僧八思巴を招いて、所謂チベット佛教であるラマ教を受容した。そのため、次第にこの教えが蒙古族の間にひろまり、多くの神を拝み、教義の宣布より、呪文や祈祷に重点をおく、唐代の密教に似たこの教えが、従来の佛教に種々影響をおよぼすことになった。たとえば、五台山や金稜等の従来の佛教有縁の地に壮大なラマ寺院が建てられ、豪奢な佛事供養法会がいとなまれるばかりでなく、ラマ僧は帝師、国師として政治に干渉することが多くなり、やがて人々の心はラマ教をはなれることとなった。元朝の100年にして滅んだのはラマ僧の横暴によるとさえいわれるのである。

以上述べてきたようにラマ教の受容には問題もあったが、その文化的貢献は無視することはできないであろう。即ち、チベット蔵経の伝来である。従来の漢訳経典に加えてチベット経典からの加上さえみられるのである。さらに、この両経典の比絞研究もおこなわれた。又、これとともに漢訳大蔵経の編纂もおこなわれ、蔵経の雕印事業は元代の佛教史を飾るものである。伝承されてきた法相・華厳・浄土なども流行したが、中でも禅や天台が盛んであった。ことに、臨済禅は正宗と称することを許されていた。

なおまた、注意すべきは道教の革新であリ、老子道徳経以外の道教の典籍は廃棄され、道教と佛教はそれぞれ自らの領域をまもって人々を教化し、調和融合の方向にすすんだことは注意すべきである。

この元は1368年〔AD.〕明に滅ぼされた。明の太祖来元璋は青年時代を一時、僧の生活を送ったことがあリ、即位後、佛教にたいしては好意的であった。しかし、前代のラマ教の弊害に鑑みて、ラマ教に規制を加ぇえたのみならず、在来の佛教にも統制を厳しくした。このような事情の中で僧団の統制機関の整備が行われた。その概略は中央に僧録司をおき、僧官として善世・闌教・講経・覚義をおいて、天下の僧尼を統監した。さらに、府に僧綱司・州に僧正司・県に僧会司をもうけて僧官を任じた。

また、全寺院を禅・講・教の三にわけた。これは宋代の禅教律の三寺院制を改めたものといわれる。禅寺は言うまでもなく坐禅公案修行する寺であり、講寺は経典を講説する寺であり、天台・華厳等の諸宗派の寺である。教寺は宋代の教寺と異なって律寺に代わって設けられたものであり、瑜伽顕密の法事や儀式を行なう寺であリ、死者の追福供養や、善根功徳のための祈祷法会を行う場所であり、この法事を行う僧を瑜伽教僧、或は単に教僧ともいった。また、一般の壇越の求めに応じて佛事供養する僧を赴応僧といった。このようにして佛教集団は統制されると同時に保護されたのである。

教学的には、前代の諸宗融合の立場から、さらに進んで儒・佛・道の三教帰一の統合的佛教となった。このような教学の在り方は、一般思想界の融合統一的傾向と相呼応したものであり、一般の知識人をひきつけ、浄土教を主とする居士佛教を盛んならしめた。

以上のような近世における佛教の流れは、17世紀中葉に中国東北一部より興った清朝の代にも居士佛教として繁栄し、高い教養を持ち熱烈な信仰心をもつ居士階級の人々によって指導され、近代社会に適応した佛教運動として展開したのである。勿論、現在の中国東北部・満州の名は、チベットのラマ教が贈った曼殊師利皇帝の称号に由来するといわれているように、この地から興った清朝がラマ教を保護したのは当然であり、ラマ教の寺院が佛教有縁の地に建てられた。これらの寺院はラマ教黄教派の寺として黄寺といわれ、此にたいして在来の寺院は青寺とよばれた。このような中で大蔵経の刊行も行われ、とくに雍正帝のもとで勅版の蔵経の雕印が発起せられ、乾隆帝の時に完成した龍蔵は特記すべきである。この他に甘殊爾・丹殊爾の両部の満州語訳蔵経も完成した

以上のように、中国における佛教は中国の風土の中で、元来、宗教否定の立場をとる共産主義政権のもとでも居士佛教を中心として、真摯な信仰生きる民衆と共に生きつづいているのである。

第四章 日本における佛教受容とその風土性

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佛教の日本への伝来については、伝統的に凝然の『三国佛法伝通縁起』にしたがって、印度・中国・日本へとの伝来と考えられてきた。しかし、最近の研究によって明らかなように、日本の古代の佛教は、直接的には朝鮮佛教圏からの伝承である。その公伝は欽明天皇の13年〈552〉百済聖明王からの佛像経論等の献上といわれる。勿論、私伝としては『扶桑略記』『水鏡』『日本書紀』などに散見する記録にみられるように、顕宗天皇〔在位485487〕や継休天皇〔在位507531〕の御代に九州や大和地方に伝わっていたようである。ところで、公伝以来、此れ等の百済・高句麗・新羅など朝鮮半島の国々から、僧の渡来が続いたのである。次ぎにその重な人々をあげておこう。

まず、百済僧には次ぎの人々がある。曇慧〈ダムヘ〉〔欽明天皇15年、9人の沙門と共に来朝〕道深〈ドシム〉、共に三論・成実の学者、敏達天皇12年〈583〉沙門日羅〈イルラ〉来朝〔聖徳太子は彼を神人といい、救世観音の再来としてあがめた。摂州剣尾山を開く〕、用明天皇2年〈587〉沙門豊国〈プングク〉〔四天王寺の落慶法要の供養導師を勤め、後に住持となる〕崇峻天皇元年〈588〉沙門慧聡〈ヘチヨン〉来日〔佛舎利、令開等6人の沙門、寺匠の太良未太・文賈古子の二人、鑪盤博士・瓦博士・画師白加を献じた。後に法興寺が建立された時、住持となる〕推古天皇の10年〈602〉三論学者観勒〈グワンロク〉来日、〔歴史・天文・地理・遁甲方術などの書を持参、31年僧正に任ぜらる、わが国僧綱の始〕、舒明天皇11年には百済大寺がたてられた。なお、この頃、日本から尼僧が百済に留学している。崇峻天皇元年に善信・禅蔵・慧善が留学。戒六法・具戒三重などを学び帰国、始めて律がわが国に伝わる。これより出家受戒するものがでたといわれている。このように、わが国と百済との交流は天智天皇の2年〈663〉百済が滅亡するまで続いたのである。

次に、高句麗についてみるに、6世紀から7世紀にかけて、この国の僧の中に隋や唐に留学するものがあった。摂山高麗朗大師と呼ばれた僧朗〈スンラン〉は北地で三論を学び、江南にゆき鐘山草堂寺に住した。梁の武帝は彼から法を聞き、智寂等10人の僧に三論を学ばせたと伝えられている。陳代には天台山波若〈パヤク〉、沙門智見〈ジホアン〉があった。このように、大陸で活躍した人々の他に日本佛教の開創期に大きな足跡を残した人々があった。敏達天皇の13年〈584〉蘇我馬子は百済からもたらされた弥勒の石像を祀り精舎を建てた、香火を奉ずるものとして、播州の某所にいた慧便〈ヘビヨン〉を探しだし、これを行なわしめたといわれ、前に留学僧としてあげた司馬達の二人の娘禅蔵・慧善は、彼にしたがって得度したといわれている。推吉天皇3年〈595〉来日し、皇太子豊聡の師となった慧慈〈ヘザ〉は百済僧の慧聡〈ヘチョン〉と共に佛教をひろめ、三宝の棟梁となった。来日の翌年、法興寺の完成後、勅命によって同寺に住したが23年〈615〉帰国した。当時、僧隆〈ソンリコン〉雲聡〈ウンチョン〉の二人の僧も来日していた。推古天皇18年〈610〉曇徴〈ダムジン〉来日、外学や五経につうじ、工芸偽術に通じ、従来なかった絵画を人々におしえた。推古朝の高句麗僧でもつとも大きな影響を与えたのは慧潅〈ヘグワン〉である。推古朝33年に来日、わが国三論宗の祖師として尊敬され、勅命により元興寺に住した。三論宗の大成者・吉蔵に師事したと言われる。その門下に福亮・智蔵・道登・慧雲・智円・慧師などあリ、殊に慧師は中国に趣き嘉祥大師吉蔵について三論を学んで帰国、元興寺に住うした。

以上述べてきた百済と高句麗の彿教は新羅へと伝わり、しかも新羅の文武王の8年〈668〉百済・高句麗を滅ぼした統一新羅は、自らの受容した佛教とこの二国に受容され展開したものを統合して、いわゆる朝鮮民族の佛教を形成したのである。

ところで、ここで新羅の佛教の全体の展開を歴史的に述べようとは思わないが、ただその佛教の展開過程の中にみられる風土性と民族性を明らかにしようと思うのである。ところで、高句麗の佛教は主に五胡十六国の流れをうけ、百済の佛教は東晋の佛教をうけたといわれる。前にも述べたように五胡の佛教は神異を重んじ、僧侶が国王の政治顧問のような職についたために儒教は国家佛教となったし、百済のそれは東晋の貴族にうけた格義佛教をうけて、貴族佛教の傾向をもっていた。この両者を受けた統一新羅の佛教は国家佛教・貴族仏教として国家統一の精神的支柱となり、民族精神となり、元暁のような思想家を輩出させ、また、民族固有のシャーマニズムと習合した浄土教や弥勒信仰が民衆の中に深く浸透していったのであった。

このような伝統の中で展開してゆく朝鮮仏教は護国仏教として、常に護国精神によって貫ぬかれているといってよい。例えば、高麗版大蔵経がモンゴルの侵略にたいする敵国降伏の悲願をこめ、佛力による加護を念じて彫印され、李朝には日本の豊臣秀吉の朝鮮出兵に西山〈ソサン〉大師、泗溟〈サミヨン〉大師等が武器をとって義軍として戦闘に参加、祖国防衛に血を流したことなどのようである。また、思想的には宗派的ではなく、綜合的で種々の宗派を融合したものであった。たとえば、高麓時代の普照国師知訥〈ジヌル〉の 「諸佛、これをロに説くを即ち教となし、祖師、これを心に伝うるを即ち禅となす」という教と禅との綜合を説く宗風は、これを示すものである。いま、このような朝鮮仏教の特色を円光と元暁の教えにたしかめてみよう。

さて、新羅佛教は第六世紀の中葉、法興王の14年〈527〉の佛教公認に始まると考えられるが、実際には真興王〈在位540575〉の時代になってからである。法興王14年〈527〉に創建が開始された慶州の興輪寺〈フンリュンサ〉が完成したのが真興王の5年〈544〉であり、この時に国民が出家して僧や尼になることがゆるされたといわれているのである。また、10年には留学僧の覚徳〈ガクドク〉の帰国とともに梁の使者が佛舎利をもたらした。このように梁との交渉は、護国佛教形成に影響をあたえたというべきであろうか。また、梁の僧官の制度は、翌11年に安蔵〈アンザン〉法師を大書省に、12年には高句麗の恵亮〈ヘリャン〉法師を国統に、さらに宝良〈ポリャン〉法師を大都維那に任ずるなど、その影響がみられる。

また、14年には新宮殿を月城の東に築いたところ、そこに黄龍が現れたとの奇瑞を感じて、これを佛寺に改めて皇龍寺〈ホアンリョンサ〉の号を賜ったとも伝えられている。この皇龍寺は国立寺院として『金光明経』『仁王経』『法華経』などの護国経典を転読して国家の安泰を祈願し、又病気平癒や禳災の祈祷をおこな百高座会が開かれたのである。この他、斎会が催され国家の精神的拠り所となったのである。このような護国思想による倫理観は円光の世俗の五戒にみられる。即ち、佛教徒としての国民の心得を論じたものである。それによれば、1.君に事うるに忠をもってす。2、親に仕うるに孝をもってす。3.友に交わるに信あり。4.戦いに臨みて退くことなかれ。5.殺生に択ぶあり。などである。この円光の世俗の五戒に対して、武士が生涯守るべき戒めをと求めた箕山らは、第五の殺生に択ぶ有りの意味が理解出来ないと質したのにたいして、円光はその意味をさらに明らかにして、次の如く述べている。「六斎日と春夏の月には殺さず。これは時を択ぶなり。使畜を殺さずとは、馬牛鶏犬を言うなり。細物を殺さずとは肉の一臠に足らざるをいうなり。これ物を択ぶなり。これは、また、ただ其の用いるところのみにして、多殺を求めざるなり。これはこれ世俗の前戒なり」と。この五戒に見られるように、そこに説かれている忠・孝・信は明らかに儒教の倫理にしたがうものであり、第四は武士にとっては護国思想にたつものである。後に百済との戦いに於いて箕山らは、この教えのとおりに百済の軍の包囲軍の中に突入して、味方の軍の士気をふるい起たせたとつたえられている。

また、円光は当時中国の広州でひろまっていた『占察善悪業報経』による占察法を新羅に伝え嘉栖寺に占察宝を置いた。其はこの法会を継続して運営してゆくための寺院の経済的な組織をいうのである。これによって、経にとかれていた塔懺法や自撲法がおこなわれ、此による占いが流行したのである。

次に朝鮮仏教において護法の菩薩として尊敬されている慈蔵〈ザサン〉は中国に留学し、帰国後は善徳女王のために宮中で『摂大乗論』を講義し、皇龍寺で『菩薩戒本』を講じたと伝えられている。そのため、講義の後、受戒するものが多くでたといわれている。さらに、彼は仏法伝来より100年余りになるのに戒律や僧制が整備されていなかったので、その方面でも努力し、唐の道宣は「護法の菩薩」とよんだといわれている。ところで、彼による仏教興隆の方法は国家の観念と常に結びついていたことである。『三国遺事』巻三には「迦葉佛宴坐石一新羅月城の東、竜宮の南に迦葉佛の宴坐石あり、其の地即ち前佛時の伽藍の墟なり。今、皇龍寺の地、即ち七伽藍の一なり」とある。このように、新羅の国土は仏教有縁の地であり、かっては諸佛のいたところであリ、仏教は外来の宗教ではないとし、これを興隆し国民が信仰するならば、国家は佛の保護をうけて国運は隆盛になると、仏教護国をといたのである。ことに、新羅の国王はインドの王種であるといい、諸佛出現の土地であるとさへいうのである。このような考えから建設されたのが皇龍寺九層塔である。この九層の第一層は日本、第二層は中華、第三層は呉越、第四層は托羅(済州島)第五層は鷹遊(鴬遊山.江蘇省東海県にある)、第六層は靺鞨(中国東北地方の東南部にすんでいた種族.)第七層は丹国(契丹)第ハ層は女狄(女真)、第九層は■貊(中国東北から朝鮮にかけていた民族)であリ、この九層の塔に祈願すれば、これらの諸国よりの攻撃を避けることが出来るし、これらの諸国に勝つことができるといわれたのである。

このようにして、朝鮮の仏教は護国仏教として発展してゆくのである。第七世紀の初頭、円光や慈蔵の入唐によって伝えられた仏教は、その風土のなかで教学の研究は段々と盛んになり、教学の隆盛期をむかえるのである。この時期に現れたのが、円測〔ワウンチョク〕〈613696〉義湘〔オイサン〕〈625702〉遁倫〔デユンリユン〕道証〔ドゾン〕神肪〔シンバン〕太賢〔テヒヨン〕、さらに中国に入唐しないで一生半島で過ごした元暁〔ワウンヒヨ〕〈617686〉などであった。ここにみられるように、この期には法相宗や華厳宗、やや遅れて南宋禅が伝来して教学仏教と共に実践仏教が盛んに流行した。とこで、この中で新羅の仏教に独創的な思想的立場から、教学を組織したのが元曉であった。

伝説によれば、元曉は義湘と共に入唐の為に旅立ったが、途中で夜、乾きのために水を飲んだ、夜が明けてみればそれが髑髏の中に溜つていた水であった。これを知って彼はむかつきを覚え、吐き気を催し苦しんだ。しかし、知らなければ何ともなかったのに知ったために吐き気に苦しむ、人間の苦は自らの思いによると、唯心所造の道理を悟り、入唐を中止、経論の研究によって、偉大な仏教学者になった。彼の仏教は、海東宗、中道宗、法性宗、芬皇宗、華厳宗など、種々によばれるばど幅の広いものであった。しかし、彼の思想的立場の根本は和会融会にあり、それを「和諍」といっている。かれの著作には実相と無相との和会を説く『大慧度経宗要』、涅槃の体と用との融会を説く『涅槃経宗要』、一切衆生同一本覚を説く『金剛三味経論』、一心の根源を説く『起信論疏』などがある。このような和会融会の仏教とともに、又朝鮮仏教には憬興〈ギヨンフン〉の浄土教学がある。彼は本来瑜伽唯識の学名であったが、通仏教の立場にたっていたのである。

以上、朝鮮の仏教について、第6世紀から第七世紀頃の状況を概観したが、朝鮮仏教についてはより詳しく述べねばならないが、ここでは此の日本への影響を考えながら、その風土性民族性を考えようとしたのであり、その点は大体明らかになったと思うので、此以上の叙述は差し控えたい。

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日本への仏教の公伝は、欽明天皇の七年〈538〉と考えられるが、実際にはそれより以前に伝わっていたであろうことは、今日の考古学上の研究から明らかである。勿論、それが時の朝廷にたいする百済の王からの経巻の献上によるものであったことは、貴族社会に受容された仏教として、民族宗教的な地盤の上に受け入れられたものであったことを示している。即ち、佛は異国の神として祀られ、日本古来の国神と同じように、攘災招福という現実的欲望を満足させてくれる神として信仰されたのである。この点、仏教は明らかに一種の呪術としてうけとられ、佛像を祀り祈願すれば、古来の神々に願うよりは、より大きな効能があると、その霊験に期待したのである。このような霊験のある佛像を祀るところが寺院であリ、その祈願をおこなうのが僧尼であり、それらの僧尼の守る戒律は神祇祭祇の禁忌として理解されていた。このように、仏教はその伝来当初には、仏教として正しく理解されて受容されたのではなかった。勿論、風土と民族という点は無視できないが、それが、正しく教学として理解されたのは奈良・平安の時代であろう。しかし、思想的に仏教が受容されるのは第七世紀の聖徳太子によってである。

太子の仏教の理解は、その著作といはれる三経義疏に見ることができるであろう。法華経に義疏をかいて、そこに一乗仏教の根本精神を見、勝鬘経に義疏をつくって王者の在り方をしリ、維摩経に義疏を書いて在家信者の姿を見て、仏教による人間の生き方を学ばれたといわれている。しかし、太子にとって、これらの経典の底にながれている思想はといえば、其は平和国家建設の為の和の精神であった。かの十七條憲法の第一条に「和をもって貴しとなす」といわれるのは、これを示している。しかも、それは第二条にしめされる「篤く三宝を敬え」という佛法僧の和合のsanghaの精神である。それを太子は「四生の終帰、万国の極宗」といわれているのである。

このようにして、仏教は政治の根本理念として位置付けられたのである。憲法第三条の「詔をうけては必ず謹め」とは、これを示すものである。伝来当初、蘇我氏によつて受容、された仏教理解とは全くことなっているのである。太子の「三界虚仮、唯佛是真」は、これを物語るものである。『上宮聖徳法王帝説』によると太子建立の寺でらは、本尊安置の敬田院のほかに施薬院・療病院・悲田院など、仏教の福田思想による貧民救済の施設をもつ四天王寺、仏教の講学の道場として法隆学問寺といわれた法隆寺。その他、中宮寺・橘寺・峰丘寺・池後寺・葛木寺など七ヵ寺といわれている。このように仏教は人格完成を目指し、また社会救済としてはたらく実践をささえる教えとなったのである。

ところが、孝徳天皇の大化元年〈645〉の所謂大化改新によって天皇を中心とする国家の統一がはかられ、新しく律令制度がしかれ、それにともなって仏教にたいしても「仏教興隆の詔」がだされ、各氏寺の僧尼は国家のもとに組織され、氏族仏教から国家仏教へと展開していったのである。僧尼は国家の監督のもとに寺院に束縛され、天皇と国家の安寧の祈願に従事し、出家。還俗は本人の意志を無視して国家が自由におこない、民衆への伝道は禁止されたのである。ここでは、大乗菩薩道の精神は実践できなくなった。所謂、律令仏教どよばれるのである。このような状況の中で、天平勝宝元年〈749〉総国分寺としての東大寺が完成、四十八蓮弁の上に坐す大毘盧舎那佛は日本国を治める天皇を象徴するものであった。かくして、仏教は鎮護国家の仏教となったのである。

ところで、このような律令仏教という国家統治の仏教は、前に述べた新羅においては法興王の6年〈519〉に、従来の固有信仰を奉じていた氏族を統一するために実施されていたし、それは、また中国の梁の武帝の仏教による国家統治の影響をうけたたものと考えられるのである。このように、わが国の仏教も中国・朝鮮と同じような展開を示していることは注意すべきであろう。

しかし、このような律令仏教下の中で、此に批判的な立場をとリ、大乗菩薩道を実践する人々があらわれた。その一つは出家性の貫徹を志した人々であリ、他は菩薩道の実践としての民衆伝道の方向をとった人々である。前者には吉野の比蘇山寺で山林修行を行い。自然智宗をひらいた神叡〈?737〉、『愚志』を著わして、国家の僧団統制を批判して竹渓山寺に入った道慈〈?744〉があリ、後者には国家の厳しい禁制を乗り越えて、大乗戒の実践として各地の民衆を教化した道昭〈629700〉、行基〈668749〉がある。特に行基については、ことさらに述べる必要はないであろう。かれの民衆教化は国家からは僧尼令違反として厳しい弾圧に逢いながらも果敢に進められた。しかし、やがて国家は大佛造立に際しては、彼の協力を求めざるをえなくなり、彼も大佛造立の勧進を行い、天平十七年〈745〉僧綱の最高位である大僧正に任命された。しかし、彼は自らの信念を貫いて、その後も律令仏教を批判し、それと対決しながら天平二十一年〈749〉、八十二歳で生涯をおえたのである。このような行基の仏教徒としての姿勢は日本仏教徒の歩んできた日本的ともいえる特色を示しているように思われる。

統一国家を断片的にしか経験していないインドの仏教は、人間の支配構造よりも天地自然の道理に深い関心を寄せ、人間の生きる筋道を法〔dharma〕にもとめてきたのである。この仏教の理念が国家の統治者の統治の理念として始めて受け取られたのは中国であった。

そこには大家族主義による民族国家が断続的ながら存在したし、政治的権力の争奪の中に生きる権力的政治家が国を支配していた。このような社会の人間的秩序を維持していたのは儒教であった。このような社会の中にいきた仏教は、もはや超国家的であることはできず、教団主義的な個人の解脱を中心とする立場に留まることは不可能なことであった。仏法は王法を助け、国王を守護し、国家を鎮護し、民衆を利益するものとしてとりあつかわれたのである。このような国家観はわが国が古くから伝承してきたものでもあった。その点で、仏教はわが国に余り強力な抵抗もなく受容されたのである。それは、護国法要・懺法悔過・供養諸儀・修善行事などのかたちで行なわれたのである。

護国法要は主として金光明最勝王経・仁王護国般若経・妙法蓮華経などの護国経典によるものであり、その他、大般若経・金剛般若経・維摩経・梵網経・華厳経などの読誦による法要もいとなまれた。又、悔過法要は五穀の豊穣を祈り、国家の安泰を願い、怨敵退散の祈願などには天皇自ら発願し、国民全体の罪科を一身に引き受けて、悔過されたのであった。したがって、それは多く宮中悔過の厳修であった。それには吉祥悔過・薬師悔過・佛名悔過などがあった。これらについては、ここでは詳しく述べないが、これらが国の行事として行なわれたことは、明らかに仏教の民族性風土性をしめすものである。

このようにして、わが国での仏教は、教学研究を盛んにおこなつた南都六宗にしても、国家の援助のもとにこれをおこなったのである。このような事情は、表面的には平安時代の伝教大師最澄・弘法大師空海の場合も鎮護国家の仏教として同じようにみえるが、平安時代における仏教はその国家との関わり方において、奈良時代のそれとは全く性格を異にしていた。即ち、南都仏教は律令仏教として、仏教は国家に従属し、出家得度・受戒の権限までも国家が掌握して、僧尼を国家に奉仕させたのである。南都六宗にしても国家の統制集団的色彩が強く、宗派ではあったが教学研究組織であった。これにたいして平安の仏教は鎮護国家を標榜しながらも、国家にたいして主体性をもった宗派として、即ち、天台宗・真言宗という独立した教学組織を確立したのである。出家得度・受戒の権限を自らの手で行ない、民衆教化を実践したのである。

しかし、このような南都仏教と平安仏教との違いは、桓武天皇の平安遷都の断行によるものである。即ち、国家の保護政策による仏教の堕落と膨大な出費の刷新のため、南都寺院との関係を切り、徳行の勝れた浄行僧を育てたのである。この時期に出たのが最澄・空海であった。両者は共に仏教による鎮護国家を説いたが、その主張にはその趣きをことにしていた。即ち、最澄は延暦四年〈78519歳に東大寺で受戒したが、間もなく比叡山に登リ、厳しい籠山修行に専念したが、延暦二十三年〈80438歳の年、入唐して行満、道遼から天台教学を学び、確然に牛頭禅を受け、道遼より円頓菩薩戒を受け、さらに越州龍興寺で順暁阿闇梨より秘密潅頂を受け、延暦24年帰国、翌25年〈806〉、円密戒禅の四宗合一の天台法華宗に年分度者二名をおくことがみとめられ、南都六宗から独立した宗として公認されたのである。しかし、天台の学生も受戒は南都の戒壇でうけねばならず、最澄が目指した得度・受戒の独立、宗派教団の確立とは程遠いものであった。彼の生涯をかけての大乗戒壇の設立への願いは、生存中には実現せず、滅後7日目の勅許ではあったが、ここに彼の国家仏教への対決の姿勢をみるのである。大乗仏教による大乗菩薩僧の養成、これこそ最澄の願いであった。それは、反律令仏教に生きた行基を追い求めたものといえるであろう。法相宗の徳一との三一論争、法華一乗と鎮護国家などについて『照権実鏡』『守護国界章』『法華秀句』等を著し、大乗戒壇設立に対する反対論にたいして『顕戒論』を著したのであった。

ところが、この最澄にたいして空海〔774 - 835〕は、初め儒教を学んだが、のち仏教を学び山林優婆塞として世俗をきらって佛道修行に励んだ。24歳の時『三教指帰』を著し、儒佛道の三教の中で仏教の最も勝れていることを述ベているが、其は決して世俗的立場においてではなかった。彼は大和国久米寺で『大日経』を感得して以来、真言密教確立への道を歩むのである。延暦23年〔804〕31歳.東大寺で出家得度して最澄と共に入唐し、不空三蔵の弟子恵果阿闍梨から密教の秘法を相承し、悉曇などを学んで帰国した。この密教は新しい仏教として朝廷・貴族に歓迎された。帰国後、空海はその教義・実践の体系を整理し真言宗を開創したのである。その著『十住心論』は密教における最初の最高の教判である。弘仁7年〈816〉高野山を賜り、金剛峯寺を建立して真言密教の根本道場とした。

ところで、この高野山の開創は空海自らの成佛道完成の道場とし、自己入定の地とするためであったが、同時に世俗化した南都の都市仏教・学問仏教を否定して、山岳仏教・実践仏教を確立せんためでもあった。弘仁14年〔823〕には官寺であった東寺を与えられ、真言僧50人の専住が公許された。ここに、従来の諸宗兼学の寺院にたいし、一宗一寺という官寺が出現したことになリ、空海はこれを教王護国寺と改め、真言密教による鎮護国家の道場としたのである。このころ、彼は僧綱として国内のおおくの寺院を支配下において、南都の東大寺に潅頂道場〔真言院〕を造立して、南都の諸大寺を密教化していった。このような密教化は貴族社会の現実的要求に対応しながら、呪術的な祈祷仏教へと展開したのである。かくして、平安仏教は密教化し、祈祷宗教・民族宗教となったのである。ここに、また我々は仏教が時代の流れの中で、その風土性と民族性に順応しながら展開してゆく姿をみるのである。

このような中で貴族達は自己一門の繁栄の祈願処として、進んで寺院を建立し、盛大な法要を営んだのである。朝廷や藤原氏関係の寺院の重なものに大覚寺・元慶寺・勸修寺・醍醐寺・法性寺・法成寺・平等院などがある。このような中で仏教教団は貴族化・世俗化し、門跡寺院が成立し、門跡による教団支配が確立した。

しかし、このような平安仏教は、やがて武士の台頭によって朝廷の権成が没落し、鎌倉時代へと展開していった。その中で真剣に道を求める僧達は教団から離れて修行にはげんだのである。律令国家にたいして反乱を起こし、常陸・下野・上野などの国府を占拠し、関東に王国を建設して新皇と称した平将門の反乱は失雀天皇の天慶3年〔940〕のことであった。このとき将門の弟将平は「帝王は天から授けられたものであるから、人間の智カや腕力で、これを奪うべきではない」と兄を諌めたが、その時、将門は今の時代は力こそ君主だといったと、伝えられている。わが国の歴史が平安時代までと鎌倉時代以後とで、極めて大きい変化がみられることは否定できない。即ち、4.5世紀頃から7世紀にいたって律令国家という形で形成された古代国家が、12.13世紀の動乱の中で崩壊し、武士の支配する新しい国家体制が形成されたことは、後に暮府の崩壊により近代国家の形成をもたらした明治維新にも比較され、また、今次大平洋戦争の敗北による国家体制の変化にも比較されるであろう。

それは兎に角として、この大変革は単に宮廷貴族の手から武士の手に政権が移り、社会経済体制が根本的に変化したというだけではなく、国全体の社会秩序に変化をもたらし、さらに人間の意識の変革をももたらすものであった。このような情勢の中で国家の統制下で鎮護国家の仏教として展開してきた仏教は、庶民の仏教として一大変革を遂げることになった。

このような状況の中に現れた仏教者に法然〈1133 - 1212〉親鸞〈1173 - 1262〉道元〈1200 - 1253〉日蓮〈1222 - 1282〉などがあり、これらの人々は同じ天台宗に学びながら比叡の山を下リて民衆と共に佛道を歩んだ人々であった。まず、法然上人源空は13歳で叡山に登り、天台の教学を学んだ。18歳で黒谷に隠遁し叡空に師事し「智慧第一の法然房」といわれた。この黒谷で二十五三昧の念仏を通じて、源信の『往生要集』を学んだが、その間、南都に留学して、弥陀の本願を基調とした善導の浄土教を学び、安元元年〔1175〕43歳の時、「専修念仏」の道に帰入したといわれる。63歳の時(1198)『選擇本願念仏集』を著して、専修念仏による一切の衆生の救済を明らかにしたのである。その後、自らの立場を明確にするため、黒谷をでて京都東山の吉水に移住した。ここに、一般の庶民も僧侶・貴族・武士などと共に集まる、源空を中心とした人格的念仏集団が形成されたのである。一切の人々が、一人一人身分階級を超えて同じく念仏によって、阿弥陀佛に救われるとする、この教えは従来の民族宗教的仏教集団のそれとは異質的であり、また鎮護国家や福利民福的な祈祷仏教ではなかった。時代の要請とはいいながら比叡山や南都の仏教教団にとっては認めることのできないものであった。朝廷は南都諸寺からの要請をうけて、遂に承元元年〈1207〉専修念仏を停止し、住蓮・安楽を死罪、源空・行空・幸西・親鸞などを還俗せしめ流罪に処した。その理由を起請の文章には次のような項目をあげてのべている。即ち、戒律不要・諸佛の無視・神祇の不拝・悪人の往生・善の否定の主張などである。さらに、また嘉禄3年〈1227〉には比叡山の衆徒によって『選擇集』の版木が焼かれ、大谷にあった源空の墳墓は破却されるという、所謂嘉禄の法難があった。しかし、この浄土教系の教えは人々に広く受容され、源空の弟子の優秀さと相俟って、庶民の浄土教の信者を増大していった。鎮西派の弁長・西山派の証空・長楽寺流の降寛・一年義流の幸西・九品寺流の長西・浄土真宗の親鸞などが重だった弟子であった、

平安時代の末期頃より深化してきた末法思想のため、いきずまりを感じていた仏教界には、これを打開しようとして中国に巡礼にでかける僧が多く現れ、これらの僧達によって文殊信仰や佛舎利信仰が移入され民衆の中に普及することになった。これと同時に、当時中国で盛行していた禅宗が移入された。とくに栄西による臨済禅と道元による曹洞禅である。栄西〈1141 - 1215〉は、比叡山で出家修行し、仁安3年〈1168〉28歳の時、入宋し、帰朝の後、台密の一派である葉上流を開き、文治3年〈1187〉47歳、再びインドの佛跡巡拝を志して入宋したが果たす事が出来なく、天台山で虚菴懐敞より臨済禅をうけた。彼は仏教の衰退は僧侶が持戒・禅定を軽視したためとして、末法の時代なればこそ正法を再現しなければならないと説いた。この厳しい姿勢は、当時の鎌倉幕府をはじめ武士階級の人々に信仰された。

次に、道元も初め比叡山で仏教を学んだが、世俗化した教団を嫌って建仁寺に移って栄西や弟子の明全について禅を学んだ。さらに、明全と共に貞応2年〈1223〉24歳の時、入宋した。

入宋後、天童如浄について曹洞禅を学び、五年後の安貞元年〔1227〕に帰国した。その後『普勧坐禅儀』を著し、如浄よりうけた坐神こそ「佛祖正伝の大道であり、只管打坐こそ悟りえの道であると主張して、一宗独立を宣言したのである。しかし、彼の天台・真言などえの批判は他教団の反感をかうことになり、強い弾圧をうけることととなり、やがて道元は建仁寺を退去して洛南深草に隠棲した。

道元はその後、深草にあって正法禅を主張し、これこそ僧俗・男女・智愚を選ばない、誰にでもできる易行であるとして、在家仏教の立場をしめし、坐禅専修による民衆教化につとめた。ここに、正法禅を実践する仏教集団としての深草教団が形成されたのである。彼も、また正像末の三時思想を否定して、時代の如何にかかわらず只管打坐によって悟りうると主張したのである。しかし、これによる深草教団の盛行は旧仏教教団にとっては無視できないものであり、迫害は激しさを加えた。寛元元年(1243)領主波多野義重の請に応じて、越前国志比庄に正法禅を修する道場として大佛寺(後の永平寺)を建立して、衆僧の修道生活の確立につとめた。『正法眼蔵』はこの時期の著作である。ところで、この永平寺教団形成の頃より、道元の思想は一段と純化され、禅宗諸派にたいする批判、出家至上主義の強調など彼の思想的特徴が明らかになってきた。そこでは、かっての彼の主張であった在家仏教や女人成佛などの民衆救済の立場より、出家至上主義の方が強くなり、出家することこそ釈尊正伝の佛法を正しく実行すろことであると強調したのである。とくに世俗の権力との妥協を排した。このようにして、道元の曹洞禅は栄済の臨済禅と異なって地方の武士や庶民のあいだに広がっていったのである。かくして建長5年〔1253〕54歳で、その生涯をとじたのである。

つぎに、平安時代から広く行われていた法華信仰は、鎌倉時代にはいって日蓮によって純化されて一宗として確立された。日蓮は16歳で安房国の清澄寺で出家し、22歳の時、比叡山に登り修行したが、当時の天台教学の密教化にあきたらず、三年後下山して各地を遊歴して建長5年〔1253〕安房国に帰り清澄寺で『法華経』こそ真実の教えであると専修唱題を主張した。時に日蓮32歳.立教開宗の年である。日蓮の教学は、いうまでもなく『妙法蓮華経』によるものではあるが、中国伝来の天台宗が、その経の前14品である迹門による釈尊の教えであるのにたいして、後の14品の本門の大通智証如来の教えに立って、「寿量品」にとかれる唱題成佛をといたのである。今日では疑問もあるが、彼は所謂、四箇格言といわれる「念仏無間・禅天魔・真言亡国・律国賊」を述ベ、他宗を批判攻撃し、教・機・時・国・序の五綱判をたて、教は『法華経』、機は末法五濁の機、時は末法第五の五百年、国は日本国、序は今は『法華経』の用いられる順序にあるというのである。しかし、このような他宗非難と『立正安国論』を著して『法華経』によらなければ、種々の災難を除くことは出来ないと主張し、幕府の反感をかい、迫害をうけた。文永8年、佐渡へ流罪。2年半の流人生活の中で、自分こそ末法救済の上行菩薩であるとの自覚を深めたのである。文永11年〔1274〕蒙古襲来の必至の情勢の中で、日蓮は赦免され、鎌倉に帰り、国難を救うためには『法華経』を信ずべきであると幕府に諌言したが容れられず。ついに、53歳、甲斐の国身延山に隠棲した。彼は終生『法華経』による国家統治を説き、政治権力は釈尊から与えられたものであるとして、佛法を三法に優先するものと説いたのである。

V

以上、平安時代から鎌倉時代にかけて、同じ比叡山で学びながら四宗合一の天台宗の教学と朝廷の政治権力との結びつきによる世俗化に不満をもって下山した人々について述べてきた。しかも、これらの人々は、夫々かって何処にも見られなかった一行選取という成佛道をとったのである。法然は念仏一行・道元は只官打坐・日蓮は専唱題目であった。この一行選取こそ正しく日本仏教の特色であり、日本人の民族性によるものであろう。その点で鎌倉仏教こそ日本仏教の確立であったといってよいであろう。それは釈尊が「自らに帰依し、自らを洲(しま)とせよ」と説かれたように、一人一人が自ら真実に目覚め、自らを問題として悟りを求めるものである。また、それは「法に帰依し、法を洲とせよ」といわれた秘密のない開かれた真実を立場とするものであった。といっても、それは単に狭い意味で個人に跼蹐するものではなく、それは一切の衆生に及ぶべきものでなければならなかった。法然の念仏集団には庶民のみならず僧侶・貴族・武士などがあつまったことは、これを示すものであろうし、栄西の『興禅護国論』道元の『護国正法義』日蓮の『立正安国論』などの著作は、狭い意味での愛国主義の主張ではなく、いまだ、広い世界を知らない人々の捉えた一切衆生を意味していたと理解すべきであろう。親鸞もまた「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずればひとへに親鸞一人が為なりけり」と自ら一人にと厳しくうけとめると同時に「念仏まふさんひとびとは、わが御身の料はおぼしめさずとも、朝家の御ため国民のために、念仏をまふしあはせたまひさふらはば、めでたふさふらふベし」と。一切の衆生の救いを朝家の御ため国民のためと表現しているのである。

このようにして中世の仏教は一つは社会の根底に浸透していた神祇や呪術を包摂して教理に組み入れようとしたもので天台・真言の神道説や南都諸宗の戒律復興などにみられる。他の一つは神祇や呪術を否定し克服しようとするもので源空や親鸞の専修念仏や日蓮の専唱題目・道元の只管打坐などであった。ところが、南北朝の動乱を経過して室町時代にはいると、これらの中世新仏教は神祇や呪術をとりいれて、その教線を各地に伸ばしていった。例えば、日蓮の没後は日蓮宗が鬼子母神・三十番神などの俗信をとりいれ、呪術的祈祷を推進し、また曹洞宗が『清規』の中に祈祷の規定を設け、除災招福を祈願し、諸天・諸神をはじめ吉凶卜占の俗信をとりいれたことのようである。さらに、専修念佛の立場から諸神諸佛の不拝を主張した浄土教の場合でも阿弥陀佛中心の神道説を説いた。ただ、親鸞の流れをくむものでは伝統的な立場が護られていたと言えるかもしれないが、それでも存覚の著と謂われる『諸神本懐集』では、わが国の諸神が皆念仏を勧められるととくのである。ことに、この時代には近畿およびその周辺の地域では、名主階級を中心として農民の自治的共同体的な組織をもつ、所謂、惣村が成立し、農民達は寄り合いをもち、掟を作って、村落の経営にあたった。したがって、宗教活動も惣村の行事として行われ、農民の信仰は組織化・集団化したのである。本願寺教団の蓮如は村落を基盤とした講や組を組織し、村落の統制者である名主や年寄を把握し村ぐるみ門徒化し、村から卿、郷から国へと教団を発展せしめたのである。日蓮宗が村落共同体を中心に布教して「皆法華」の村をつくりだしたことは周知のことがらである。このような仏教の社会への浸透は、大陸の明国との交易などによる人々の豊かな文化生活に種々の影響をもたらすことになった。

中世室町時代は鎌倉・南北朝の社会の動乱期を経過して、下剋上の時代であったといわれる。所謂、英雄不在の時代であり、従来、社会の下積みの生活をしいられてきた一般の庶民、とくに農民の活躍した時代であった。ところが、このような時代の形成に大きな力を与えたのが仏教であった。仏教の民衆にたいする伝道は、既に第7世紀の行基や道昭によって行なわれていたが、それが教団の組織的な活動として行われたのは唱導家といわれる人々による伝道であった。即ち、わが国での唱導の鼻祖といわれる比叡山の澄憲、次いで聖覚・隆承・憲実・憲基等がでて、これを継ぎ、朝廷はこれにとくに「論導」の名を与えたといわれている。その後、寛元年間に三井の園城寺に定円という人がでて唱導をよくしたというので『元享釈書』には澄憲と定円とを唱導の二家とよんでいる。このようにして仏教は民衆の仏教理解を深め、信仰を深化させていったのである。これに用いられたのが談義本であり、比喩や因縁説話を用いて仏教の教えを判り易く説いたものである。

このようにして仏教の民衆化がすすみ、その影響は当時の文学や芸術の面におよんだのである。謡曲や能楽・茶道や華道・和歌や連歌・さらには水墨画などに禅宗の影響が強くおよんでいるし、これが、所謂、五山文学を形成したのである。また、平安時代の教育は、貴族にかぎられていたが、この時代になると武士や一般庶民にまでおよんてでくるのである。それを実行したのが寺院僧侶によって行われた学塾である。京都や鎌倉の五山は今の大学であり、学塾は小学校といえるかもしれない。鎌倉時代に学問所として創設された足利学校は有名である。

また、寺院は地域における商工業の発達の中で、これらと結びついて教線を拡張し、市場は寺院と結びついて門前町を形成したのである。寺院を場とする頼母子講や無尽講などが流行した。このようにして、仏教は世俗との結びつきの中で社会にひろがっていったのである。

しかし、このような時代の後、織田豊臣の混乱期には一向一揆にみられるように権力にたいして強力に反発した時代もあったが、やがて徳川の天下の統一の中で封建体制の中に完全に組み込まれてしまうのである。幕府は教団の勢力を弱休化するため、僧侶には学問を勧め、それを優遇し、大教団を分割統治し民衆支配の力を弱めたのである。比叡山の勢力にたいしては関東に東叡山寛永寺を建て、高野山の真言宗を分割して日光に輪王寺を建て、浄土真宗を東西両本願寺に分割するなどである。

また、地域住民を寺院に檀家・門徒として分割所属せしめ住民監視にあたらせるなど、種々に教団の組織を利用したのである。仏教にたいする幕府統治の諸制度については、その詳細は省略するが、徳川三百年は仏教教団は幕府の統治の中で完全に封建化してしまったのである。しかし、反面、学問僧優遇の体制は各宗派の教学研究を盛んにし「信仰実践の仏教」を「学解の仏教」ヘと変質せしめたのである。勿論、このような中でも僧侶の民衆への教化は行われたが、それは封建社会への順応をすすめる傾向にあった。このような強カな封建的統制の中で、仏教教団は次第に形式化・固定化していった。ことに檀家制度による寺院の経済的安定の中で、僧侶の生活は安易になりがちとなり、葬式と法事を中心とする葬式仏教・儀式仏教となっていった。このような仏教教団に対して儒教・神道・国学などから排佛論がおこった。なかには僧侶から儒教に転向して排佛論を展開したものさへ現れたのである。

ことに平田篤胤の主張する復古神道の一派は、独自の神道的世界観である「惟神道」を確立して、神代以来の万世一系の血統を継ぐ天皇への服従を説く国粋主義にたって、外国の教えである儒教・仏教を信仰すべきでないと、これを排撃。仏教全廃論を唱えたのである。この思想が幕末には勤皇の志士の指導理念となったのである。かくして、排佛論は尊皇攘夷論や復古思想などを背景として各地にひろがり、廃佛毀釈となったのである。

明治元年(1868)政府は、祭政一致・神祇宮再興の布告をだした。この神祇官というのは天皇が執り行う祭事を補佐する役目をもつもので、官位の最高位であり、全国の神社・神官を総括した。このようにして神祇行政の中央集権化が完了するのである。明治3年、この神祇官に宣教師が設けられ、祭政一致・惟神の大道を国民に宣布すベきことが定められたのである。また、翌年には氏子調〔改〕の法令が発布され、寺院の宗門改めが廃止されたのである。

この氏子調とは、国民の総てが夫々の村の神社の氏子となり、その印章をうけるという制度であり、これは国民総氏子の思想背景によるものである。是れによって全国の神官は国の官吏となったのである。しかし、この制度は明治6年〔1873〕キリスト教の解禁と同時に廃止されたが、一方、全国の寺院の寺領の没収、宮中での佛事法會の廃止、寺院僧侶の官位の停止を行い、同時に僧侶の肉食妻帯、蓄髪の許可、俗姓の設置などが実施され、神道国教化は着々と進められた。

このように祭政一致の布告、神佛分離令の公布によって仏教教団は激しい弾圧をうけたが、そのために期待された神道による国家統治は、必ずしも成功したとはいえず、廃藩置縣後の政情不安、キリスト教の進出に対応するため、仏教を利用、国民教化政策をとらざるを得なくなった。即ち、明治5年の神祇宮や宣教師の廃止、教部省の設置による教導職として神官と僧侶の任命がそれである。しかし、教導職にあるものにたいする三条教則には、1.敬神愛国の旨を体すべきこと.2.天地人道を明らかにすべきこと.3.皇上を奉戴し朝旨を遵守すべきこと.とあり、これこそ神道国教政策の根本理念を示すもので、信教の自由は、ひどく制限されたものとなり、仏教教団は、このため神道国教政策の一翼を担わされることととなったのである。明治5年浄土真宗本願寺派の島地黙雷はヨーロッパの宗教事情視察の途中で『三条教則批判建白書』を政府に提出、政府の宗教政策の変更をせまったのである。彼は帰国の後、本願寺の大州鉄然・赤松連城・大谷派の石川舜台・在家仏教の大内青巒等とともに政教分離・信教の自由の運動をすすめ、教部省の廃止という成果をうみ、明治17年〔1884〕教導職の制度も廃止されたのである。このようにして仏教教団は近代化してゆくのである。例えば、制度面でみれば各宗派ごとに中央集権化がすすめられ、本山と末寺とが直結し教区・組などの組織を形成した。また、下意上達の組織として宗議会が設けられた。また、寺院子弟の養成や国民の宗教教育の機関として、西欧の教育制度をとりいれて、従来、忘れられていた女子教育をもとりいれた学校経営をおこなったのである。伝道事業としては、広く社会に眼をむけて、刑務教誨に活動し、日清戦争を契機として軍隊布教を実施、日常的には仏教婦人会活動、仏教青年会活動など社会生活に密着した活動を展開したのである。さらに、海外に進出した人々の要請に応えて海外伝道のための開教組織もつくられた。

以上の教団組織の近代化や社会活動は、主に真宗教団を中心に推進されたが、これによって仏教は、かって、鎮護国家の仏教から祖先崇拝による家中心の仏教に変化したように、西欧近代化の影響によって、今度は家中心・儀式を主とする仏教から、個人、信仰中心の仏教へと次第に変質していったのである。これを支えたのは、所謂、大正デモクラシーである。それは人間開放・人間平等の強調であり、労働者・農民・婦人・部落などの開放連動が実践されたのである。祖師に帰れの旗印をたて教団改革が叫ばれたのも、この頃であった。ところが、仏教教団の社会的活動は、一方、国家の帝国主義政策を推進する一種の教化機関として、利用される危険性をはらんでいた。徳川三百年の鎖国政策のなかで育った日本人、ことに国生み神話に基ずく日本人の民族性は、容易に国策に応ずる可能性をもっていたのである。昭和初期、わが国は世界的な経済恐慌によって深刻な不況におちいった。その時、これを打開するため、政府は大陸への進出を計画実行した。これを機として潜在的であった危険性は現実となったのである。即ち、満州事変・日華事変・太平洋戦争へと日本は挙国一致体制をとった。昭和14年、国は宗教団体法を制定して、各宗教団体を国家の監督のもとにおいた。戦争の進行の中で政府の指導で太政翼賛会が結成されると、これに呼応して大日本宗教報國会が結成せしめられ、戦争遂行への一翼を担うことになったのである。このような情勢のなかで政府の思想統制は親鸞や日蓮の著作にあらわれる過去の歴史的叙述にたいしても、それを天皇や国神にたいする批判であるとして、その削除を命ずるなど、官憲の宗教への干渉は厳しさを加えていったのである。しかし、これにたいする宗教界の抵抗は殆ど無く、昭和16年太平洋戦争が勃発すると宗教教団は大東亜戦争完遂宗教翼賛大会を開いて、戦争への協カを誓い、仏教教団は国家のご用宗教として戦争遂行政策に積種的に奉仕することになったのである。このような中で仏教教団は、このような戦争遂行に対応できるよう教学研究をすすめたのであった。昭布20年、敗戦、進駐軍の支配のもとで日本は民主化の道を歩むこととなった。宗教団体法・治安椎持法は廃止、神道指令がだされ神道にたいする国家の特別の保護がきんじられた。翌21年、新憲法の制定、ここに、無条件の信教の白由が確立し、諸宗教は自由な宗教活動ができるようになったのである。それから、約半世紀、今日の日本の宗教の状況はどうであろうか。日本人の生活の基盤として、その精神的支えとなっているであろうか。それは現世における、しかも現前の利益のための除災招福の祈願に終始し、死者の遺体の処理手段としての葬儀の執行に腐心しているのではなかろうか。政教分離、信教の自由は本来の機能をはたしていないようにさへ思われるのである。

新年正月には、家には締め縄に門松、老若男女ともに神社詣で、4月には釈尊の誕生を祝って花祭り、8月お盆が来れば祖先の墓参り、12月クリスマスが来るとクリスマス・ツリーを飾り、サンタクロ一スがやってくる。このようにして日本人は日を送って行く、しかし、宗教的に敬虔な国民といえるだろうか、すべてを祭りと遊びにしていないだろうか。しかも、それは多分に商業ペースに乗せられていないだろうか。国際化の進む今日、これで平和な豊かな日本だと済ましていてよいであろうか。自戒自制すべきであろう。

 

東西思潮と仏教思想

武邑尚邦